星川皇子の反乱の謎について
雄略天皇は吉備稚媛との間に2人の皇子(磐城皇子,星川皇子)を儲けました。
吉備稚媛には雄略天皇以外にも城丘前来目という息子がおりました。『日本書紀』雄略紀23年8月の記事によれば,磐城皇子,星川皇子の異母兄といいます。
雄略天皇の崩御後,この2人の皇子が反乱を企てました。以下,『日本書紀』の記事からの引用です。
雄略天皇二十三年八月、雄略天皇が崩御した。
『日本書紀』雄略紀23年8月
吉備稚媛は密かに幼いわが子の星川皇子にこう告げた。
「天下の大王に即位したいのであれば、最初に大蔵官を奪うように」
長子の磐城皇子は母夫人が星川皇子を教唆したのを知り、こう諌めた。
「皇太子は弟ですが簡単には欺けません。実行してはなりませぬ」
星川皇子は聞かなかった。すぐに母夫人の意見に従い大蔵官を奪い、外門を鎖で閉じて後難に備えた。そして権勢を得た後は自由に振る舞い、公共品を消費した。
この時、大伴室屋大連は東漢掬直にこう言った。
「雄略天皇の遺詔で心配していたことが現実となってしまった。ここは遺詔に従い、皇太子を擁立しよう」
そこで兵士を出陣させて大蔵を包囲し、外から鍵をかけて閉じ、火を放って焼き殺した。
この時、吉備稚媛、磐城皇子、異父兄・兄君、城丘前来目は星川皇子に味方したため焼き殺された。
雄略天皇の崩御年は479年です。雄略天皇の崩御後,第一皇子の白髪皇子(清寧天皇)が即位しました。白髪皇子の母は韓媛といい,安康天皇を弑殺した眉輪王を匿って殺された葛城円大臣の娘です。
安康天皇(倭王興)の即位年は461年です。(参考:倭王興が世子の立場で462年に南朝宋に遣使した理由について)
雄略天皇が韓媛を妃に迎えたのは,安康天皇を弑殺した眉輪王の助命について,葛城円大臣が娘を妃に差し出すことと引き換えに願い出た時です。安康天皇は『日本書紀』によれば在位3年で崩御されています。461年に安康天皇が即位しているとすれば,安康天皇の崩御年は464年となります。
つまり480年に即位した清寧天皇は,15歳にも満たない若者であったことになります。当然ながらその弟の磐城皇子,星川皇子はさらに若かったはずです。
ここで問題なのは,雄略天皇の崩御後,15歳の白髪皇子の皇位を狙って,実兄の磐城皇子を差し置いて星川皇子が反旗を翻すのか,という点です。
この反乱の黒幕は母親の吉備稚媛です。仮に磐城皇子が14歳,星川皇子が年子で13歳だとします。吉備稚媛が皇位に担ぐのは磐城皇子と星川皇子のどちらかと言えば,兄の磐城皇子です。さらに言えば,磐城皇子を担いでも群臣の支持は得られません。なぜならば清寧天皇の崩御後,この2人の皇子を担ぎ出さなかったのは,まだ子供だったからです。
そうなると,雄略天皇の崩御後,星川皇子は反乱を起こしていないということになります。
それでは星川皇子は誰に対して反乱を起こしたのでしょうか?
その謎を紐解くため,今度は雄略天皇の遺詔について解析します。
わが子(星川皇子)に怯える雄略天皇の遺詔の謎
『日本書紀』雄略紀には,雄略天皇の遺詔が掲載されています。以下,引用です。
八月七日、天皇は危篤状態になられ、百官と別れの挨拶、握手、そして欷歔(すすり泣く)を交わされた。
『日本書紀』雄略紀23年8月
大伴室屋大連と東漢掬直に遺詔を下した。
「今、まさに天下は一つの家として平和になり、家々から立ち上る炊煙は遠くまで続いている。百姓は安心して暮らし、四方の夷蛮は服従している。これは天意が国内全土を安寧にするべく取り計らったからである。朕は常に心に問いかけ、己を奮起して一日一日を慎みながら帝業を務めてきたが、それというのも百姓のためである。
臣、連、伴造は毎日朝廷に参内し、国司、郡司は必要に応じて参内する。どうか心を尽くして職務に励んでほしい。
義は君臣、情は父子の間柄のことである。どうか臣、連の知力で内外の人々を歓喜で満たし、普天の下を永遠に安楽に保ってほしい。
朕は病魔に冒され、死が近くまで迫っている。このことは人生の理である。何も言うことはない。しかし朝廷の衣冠を華やかにすることができなかった。四隣の教化、政務、刑罰、いずれもまだ善行を積みきれていない。敢えて言うのであればそのことが悔やまれる。
今、朕は壮年の域に達している。これを『命短し』と言うことはできない。筋力、精神は一瞬で尽きてしまう。これはわが身を思って言うのではない。百姓の暮らしを思ってのことである。だからこれを行なってほしい。子孫について誰か心を砕いてもらえないか。天下の為にそなたらの心を朕の子孫に割いてほしいのだ。
今、星川皇子は心に凶悪な考えを抱いており、兄弟との仲が悪い。古人は次のような格言を残している。『臣を知る者は君を措いていない。子を知る者は父を措いていない。』
仮に星川皇子が志を得て共に国家を治めれば、必ずや臣、連の全員が戮辱に苦しみ、庶民に過酷な毒を流すことになろう。そもそも悪行の子孫は百姓のためにも遠ざける必要がある。善行の子孫は大業の負荷にも堪えることができる。このことは朕の家族の問題だがこの事を隠しても仕方がない。大連らの民部(私有民)は広く多く、この国を満たしている。皇太子は世継ぎの中で最上位におり、その仁孝をよく耳にする。その性格であれば朕の遺志を叶えてくれよう。
天下を皇太子と共に治めてくれるのであれば、朕は瞑目しても恨みはない」
この雄略天皇の遺詔の謎は,雄略天皇は自分の息子の星川皇子(13歳以下)の何に怯えているのか分からない点です。
雄略天皇は兄・安康天皇の崩御後,何人もの皇位継承者を殺害しています。その性格を考えても,幼い星川皇子に怯えるとはまず考えられません。
それでは,この遺詔はどの天皇の手からなるものなのでしょうか?
顕宗天皇ではありません。なぜならば顕宗天皇の後継者は皇太兄・憶計王(仁賢天皇)だからです。
そうなると皇太子がいた天皇は仁賢天皇だけとなります。
仁賢天皇には皇太子,小泊瀬稚鷦鷯皇子がいました。顕宗天皇,仁賢天皇は履中天皇の皇孫に当たります。一方,雄略天皇は允恭天皇の皇孫に当たります。履中天皇と允恭天皇は兄弟の間柄ですが,仁賢天皇は雄略天皇の皇孫から皇位を簒奪した格好となっているのです。
仁賢天皇は,星川皇子が自分を恨んでいることを知っていました。そのため遺詔に「星川皇子が志を得て共に国家を治めれば、必ずや臣、連の全員が戮辱に苦しみ、庶民に過酷な毒を流すことになろう」としたためて,群臣に警戒を促したのでした。
仁賢天皇が星川皇子に警戒心を募らせていたのには,星川皇子の性根の悪さが世間に広まっていたこともあります。
『日本書紀』には次のように記されています。
ある本にこう記されている。
『日本書紀』雄略紀・二十三年八月
「星川王は腹黒で性根は粗雑と天下に知れ渡っている。不幸にも朕の崩御後、皇太子を害そうとするかも知れない。汝らは私有民が多いので互いに助け合い、くれぐれも侮らないように。」
何度も記しますが,13歳の星川皇子に兄の清寧天皇を害すことはできません。ここでの皇太子は小泊瀬稚鷦鷯皇子(武烈天皇)です。
そして仁賢天皇の読み通り,星川皇子は仁賢天皇の崩御後,反乱を起こし,そして滅びました。
武烈天皇と男大迹王
星川皇子の反乱後,小泊瀬稚鷦鷯皇子(武烈天皇)は即位しました。仁賢天皇は飯豊青天皇に見いだされるまでの間,庶民として世を憚りながら暮らしてきました。そのため小泊瀬稚鷦鷯皇子を儲けたのは顕宗天皇の即位後のことであったと推測します。
顕宗天皇の即位年は485年です。つまり小泊瀬稚鷦鷯皇子は清寧天皇と同じように若年の天皇ということになります。
仁賢天皇は自分が崩御した後,群臣が裏切って小泊瀬稚鷦鷯皇子ではなく星川皇子を即位させようと疑ったのは,その年齢の若さにありました。
しかし星川皇子は反乱分子もろとも滅び,小泊瀬稚鷦鷯皇子は晴れて即位することができましたが,15歳にも満たない子供に過ぎませんでした。
その当時,馬韓は百済によって滅ぼされ,任那,加羅は累卵の危機を迎えていました。しかし仁賢天皇の血を引く小泊瀬稚鷦鷯皇子(武烈天皇)は正当な皇位継承者であり,履中天皇,允恭天皇の皇孫は他に誰も残っていませんでした。
群臣は武烈天皇の補佐として,応神天皇の5世の皇孫にあたる男大迹王を皇室に迎え入れました。
隅田八幡宮に奉納されている人物鏡銘文には,それを示唆する内容が記されています。
癸未の年(503年)八月、日十大王の年。男弟王が意柴沙加の宮に在りし時、斯麻(百済・武寧王の諱)が長寿を念じて開中費直と、穢人(東方の異民族)の今州利の二人を派遣し、白上の銅二百旱でこの鏡を作りました。
隅田八幡宮人物鏡・銘文
日十大王は「ひと」と読むのか,それ以外の読み方があるのかは不明ですが,7世紀の兄弟統治と同じように6世紀初頭,日十大王を傀儡とした男大迹王(男弟王)の政権がありました。
百済・武寧王は百済最盛期を作り出した名君です。その武寧王が人物鏡を日十大王ではなく男弟王に贈ったのは,倭国の実権を握っていたのが男弟王だったからです。
この時代,倭国を主導するのに武烈天皇はあまりにも幼すぎたのです。
武烈天皇は子を残さないまま崩御されました。倭国の実権を握っていた男大迹王(継体天皇)はそのまま即位しましたが,履中天皇の皇孫を残すため,仁賢天皇の娘,手白香皇女を妃に迎えます。
継体天皇は手白香皇女との間に排開広国皇子(欽明天皇)を儲けますが,継体天皇には他に勾皇子(安閑天皇),檜隈高田皇子(宣化天皇)という優秀な皇子がいました。特に宣化天皇の治世は安定しており,そのまま皇統は宣化天皇の皇孫に受け継がれていく流れになっていました。
「正当な皇孫」としての誇りを持つ排開広国皇子は531年,宣化天皇を弑殺するクーデターを起こします。
このように歴史を見ていくと,皇位を奪還するという目的のもと決起した星川皇子の反乱は,後の欽明天皇のクーデターの動機と似ていることに気づきます。
『日本書紀』がここまで改竄して簒奪の歴史を隠蔽するのは,「兄弟統治」を根絶したかったからだと考えています。当時の政治状況から考えればそれもやむを得なかったのだと思います。
結論
- 『日本書紀』雄略23年に記されている星川皇子の反乱は,実は雄略天皇ではなく,仁賢天皇の崩御後の出来事を記したものである。
- 星川天皇の反乱は,履中天皇の皇統から允恭天皇の皇孫に皇位を奪還することを目的としたものであった。
- 仁賢天皇の崩御後,武烈天皇が即位したが,まだ子供であったため,男大迹王(後の継体天皇)との二頭体制で政権を運営していた。
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