倭王済が451年に2回目の遣使を行った理由について

倭の五王の一人,済は何故,2回も南朝宋に遣使したのか?

 南朝宋(420年-479年)の歴史を記録した『宋書』倭国伝には5人の倭王の遣使記事が収録されています。5人の倭王のうち,3人目の倭王・済は2回も遣使(443年,451年)しています。特に2回目の遣使では,それまでどの倭王にも認められてこなかった「使持節都督・倭,新羅,任那,加羅,秦韓,慕韓六国諸軍事」に叙任されました。
 その理由は,倭王済が450年に高句麗を撃破する軍功を上げたからです。当時,高句麗は,倭国が味方する南朝宋と敵対する北朝魏に味方していました。その高句麗を撃破したので,倭王済は2回目の遣使を行い,それまでどの倭王も認められてこなかった「使持節都督・倭,新羅,任那,加羅,秦韓,慕韓六国諸軍事」を手に入れたのです。
 実は,この事実は『日本書紀』に隠されていたのです。それについて解説していきます。

450年に起きた高句麗撃破の記事は『日本書紀』雄略紀に隠されていた?!

 倭王済が451年の遣使で手に入れた「使持節都督・倭,新羅,任那,加羅,秦韓,慕韓六国諸軍事」は,先代の倭王珍が遣使した際に要望したものですが,この時は却下されました。倭王済は443年の遣使でもこの肩書は認められていません。
 しかし451年の遣使では,先代の倭王珍に認められなかった肩書を手に入れることに成功しました。これは裏を返せば,肩書を手に入れるだけの功績を立てたからだと考えるのは,別に不思議なことではないでしょう。その功績は,当然ながら朝鮮半島における軍功です。ただ,451年前後は第19代・允恭天皇の治世に当たりますが,『日本書紀』允恭紀にはそのような記録はありません。
 それではこの時期,朝鮮半島は平穏だったのかと言えば,そうではありません。実は450年に新羅は高句麗と断交し,交戦状態に入っていたのです。

 朝鮮半島の歴史を紐解くには,この時代の新羅,高句麗,百済の歴史を記した『三国史記』を読み解く必要があります。
 『三国史記』によれば,時の新羅王は第19代・訥祗麻立干とつぎまりつかんといい,第17代・奈忽尼師今なもつにしきんの太子でした。
 奈忽尼師今の薨去後、遠戚であり,かつて高句麗に人質に出されていた実聖尼師今が高句麗の後ろ盾を得て即位しました。実聖尼師今は先代の奈忽尼師今が自分を高句麗に人質に差し出したことを恨んでいました。そこで奈忽尼師今への恨みをその子供である訥祇麻立干に晴らそうと思い立ち,人質時代の友人であった高句麗人に訥祗麻立干の暗殺を依頼しました。
 ただ,実聖尼師今にとって誤算だったのは,この暗殺者が訥祇麻立干の身辺を洗ううちに訥祗麻立干の人柄に惚れ込み、暗殺計画を漏らしたことでした。
 417年、訥祇麻立干は先手を打って実聖尼師今を弑殺し即位しました。(『三国史記』新羅本紀・訥祗麻立干即位前)
 その後、新羅と高句麗の関係は悪化したものの、訥祗麻立干は高句麗との国交改善に尽力し、即位から8年後(424年)、国交の回復に成功しました。
 しかし26年後の450年,新羅は何瑟羅かしつら(韓国・江原道江陵市)城主が,狩猟中の高句麗の辺境の将を誤って殺害したことがきっかけで高句麗と断交し交戦状態に入ってしまいました。(『三国史記』新羅本紀・訥祇麻立干28年)
 時の高句麗王は長寿で名の知られた長寿王の時代でした。長寿王は新羅の先代・実聖尼師今が弑殺された後も新羅との関係改善に応じており,『三国史記』にも「お互い好感を抱いていた」とも記されています。

 それを裏付けるように,新羅は424年に高句麗と国交を樹立して以来、高句麗に侵略されたことはありませんでした。少なくとも『三国史記』にその記録はありません。
 新羅が高句麗に頻繁に侵攻されるようになったのは、450年に発生した高句麗の辺将殺害事件の後からでした。 長年,友好関係を維持してきた高句麗と新羅が、狩猟中の高句麗の辺将を誤って殺害しただけで国交断絶に至るとは考えられません。それに『三国史記』の記述が真実ならば、勝手に新羅領内に入った高句麗の辺将の方に罪があり、新羅王が丁寧に謝罪したのであれば断交という最悪の事態を回避することは十分に可能なはずです。しかしそうはならず,新羅と高句麗はそれ以降,激戦を繰り返すこととなりました。

 実はこの事件の記事が『日本書紀』雄略紀に収録されています。

『日本書紀』雄略紀8年(現代語訳)

 天皇が即位してからこの年まで、新羅は背反し、献上品を贈らないことが八年続いたその理由は中国の意向を恐れるあまり、高句麗と修好していたからに他ならない。このため高麗王は精兵百人を新羅に派遣し、防備に当たっていた。
 ちょうど高麗軍の兵士一人が休暇で帰国しようと、新羅人を典馬てんま【注一】として雇い、こう言った。
「汝の国はわが国によって近いうちに滅ぼされることだろう」【注二】
 典馬はこれを聞くと腹痛を装って役目を辞退し、国に逃げ帰って高麗の兵士が語ったことを報告した。新羅王は高麗軍の防備が本心ではないことを知り、使者を国中に走らせてこう伝えた
「人々よ、家で飼育している雄鶏を殺せ」
 国人はその意を知り、国内の高麗人を悉く殺害した。しかし一人だけこの状況を国元に報告するように言われた者がいた。その者は隙を見て脱出し、高麗に逃げ込み、事の次第をすべて報告した。
 高麗王はすぐに出兵し、筑足流つくそくろ城【注三】で駐屯して兵を集め、歌儛を催し音楽を奏でた。新羅王は夜に四方から高麗軍が歌儛を催すのを聞いて賊が領内に侵入したことを知り、任那王に使者を派遣し、こう言った。
「高麗王がわが国を征伐しようとしています。これは旗を折り畳んだかのようであり、国家の危殆は累卵のごとく、その命脈も極めて短く、どれくらい持つのかも分かりません。どうか日本府の元帥の出陣をお願いします」
 そこで任那王はかしわで臣斑鳩【注四】、吉備臣小梨、難波吉士赤目子を選び、新羅を救援させた。膳臣らは軍営に到着していないのに行軍を停めた。すると高麗の諸将は膳臣と戦ってもいないのに恐怖を抱いた。
 そこで膳臣らは行軍を再開し、軍に急いで兵器を持たせて高麗軍に攻撃を仕掛けた。
 高麗軍と対峙すること十日余り、膳臣らは夜に険阻な地形に穴を掘って道を作り、全ての輜重車をそこに入れて兵を隠した。
 翌朝、高麗軍は(任那軍の姿が見えないため)「膳臣らが逃亡したぞ」と言い、全軍で追撃に入ったが、膳臣らの軍勢は伏兵と歩兵、騎兵を織り交ぜて高麗軍を大いに撃破した。
 二国の怨恨はこの時に始まった。【注五】
 膳臣らは新羅にこう言った。
「そなたは至弱の分際で至強に当たろうとする。官軍が救援に来なければ高麗に付け込まれ、そなたの人も領地もこの戦役で危うくなっていただろう。今後は夢にも天朝に背こうとするな」

【注一】典馬は『麻柯毗あかひ』という。馬の世話役のことである。
【注二】ある本に「汝の国はそのうちわが兵士となることだろう」と言ったとある。
【注三】ある本には都久斯岐つくしき城とある。
【注四】斑鳩は『伊柯屢餓いかるが』という。
【注五】二国とは高麗と新羅である。

 引用した『日本書紀』雄略紀によれば,高句麗と新羅は修好関係にあったと記録されています。
 これは450年に高句麗と新羅が断交するまでの状況を表しています。そしてこの事件後,高句麗と新羅は断交し怨恨が残ったとあります。この事件以降,高句麗と新羅は戦争に明け暮れることになります。
 次に水色部分です。これは高句麗辺将を新羅が殺害した経緯が記されています。新羅は独力で解決できなかったため,任那に救援を要請し,その結果,難を逃れています。
 任那は倭国の傘下にあったため,倭王済は任那による高句麗撃破の軍功をもって南朝宋に遣使したのです。遣宋使が南朝宋・文帝に謁見できたのが451年です。文帝はこの軍功により倭王済を「使持節都督・倭,新羅,任那,加羅,秦韓,慕韓六国諸軍事」に叙任したのです。
 最後に赤色部分です。「天皇が即位してから8年」というのは,当然ながら雄略天皇ではありません。この時代,南朝宋までの道程は約1年でした。高句麗辺将殺害事件が起きた450年の8年前は,442年です。その翌年(443年),倭王済の1回目の遣宋使が宋・文帝に謁見しています。
 これで『宋書』と『日本書紀』の記述が整合性がとれました。『日本書紀』雄略紀8年の記事に登場する天皇は,雄略天皇ではなく倭王済を指していたのです。
 これでおのずと倭王済の即位年が442年であることも分かりました。

総論

  • 倭王済が南朝宋に対して451年に2回目の遣使を行ったのは,その前年(450年)に高句麗と断交して侵攻された新羅を救援し高句麗を撃破する軍功を上げたので,念願だった「使持節都督・倭,新羅,任那,加羅,秦韓,慕韓六国諸軍事」を手に入れるため。
  • 『日本書紀』雄略紀8年の記事は,実は倭王済の事績を記録したもの
  • 倭王済の即位年は442年

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