『大唐故右威衛将軍上柱国祢公墓誌銘并序』を読む

『祢公墓誌銘』を読む①

公,諱は軍,字は温,熊津のぐうの夷人なり。
其の先,華と同祖なり。永嘉の末,乱を避けて東にき,因りて遂に家とす。
夫れ巍巍ぎぎたる鯨山げいざんごとし。清丘をまたぐに東を以てそばだつ。淼淼びょうびょうたる熊水,丹渚たんしょを臨むに南を以て流る。
烟雲えんうんひたすことを以てひいでたり。之を降し蕩沃とうよく1す。日月を照らし榳惁ていしゃくし,之を秀でること蔽虧へいき2す。霊文逸文は高く,前に七子3かぐわしむ。

汗馬4は雄武なり。ぜんの後5,三韓を異にする。華構6は輝きを増し,英材は響を継ぎ,綿つらなりはかること絶えず。代をかさねても声あり。
 曽祖は福,祖は誉,父は善なり。皆,是れ本の藩の一品なり。官号は佐平なり。併せて地をとら7える。義は光身8を以てし,天爵9を佩いて国に懃める。忠は鉄石にひとしく,操は松筠しょういん10おなじ。
 物を笵11する者は道徳が有成す。則ち士は文武堅からず。公狼,さいわいを輝きぎ,つばめ生姿せいしに頷く。みぎわさらい,よこしまをます。ひろき光は日を愛す。牛斗ぎゅうとの逸気12おかし,くらく星中を照す。羊角の英風をひろめ,雲外に影征えいせい13す。

『大唐故右威衛将軍上柱国祢公墓誌銘并序』
現代語訳

 祢公の諱は「軍」,字は「温」といい,熊津山の夷人である。
 その先祖は中華と祖を同じくする。永嘉の末年に戦乱を避けて東に向かい,そこで家を構えた。
 そこは鯨山のように山々が嶮しく聳え立っており,足を踏み入れた清丘は東側が高く聳え立っていた。熊水(錦江)が果てしなく広がっており,丹渚(百済の町名?)の南側を流れていた。
 祢公の一族は,煙のような雲が覆いながらも次第に晴れていくように,まさに樆(バラ科の落葉高木)の花が開花するように素晴らしかった。この地を支配下に収めた後,肥沃な乱れていたが,日月を照らすことで木が繁茂するようになり,大事に育んだところどこにも欠点が見当たらないかのように成長した。
 卓越した文章は評価が高く,かつての建安の七子のような才能があった。戦場では駿馬のように働き,勇武に優れていた。
 西晋の懐帝が前趙の劉聡に敗れ禅譲を余儀なくされた後,朝鮮半島にあった三韓は袂を分かってしまった。立派な屋敷はさらに輝きを増し,英邁な人材という評価の声は後代にも続き,その連綿と繋がる様子は途絶えることはなく,何代先でもその声は残っていた。
 曽祖父は福。祖父は誉。父は善という。全員,百済国の一品の地位にあり,佐平の官職につき,領内の取り締まりを行った。赤心のままに義を貫き,本来の徳行に従い国家に尽くした。その忠心は鉄や石と等しく固く,その貞操は常に緑を保つ松竹と同じで変わることがなかった。
 物事の規範となる者は道徳を身に着けている。そのため武官は相対的に文武に弱くなる。狼のように強き天子(唐・高宗)が国家の公職を継ぐと,燕のような小国はその颯爽とした姿に敬服した。それはまるで水際の砂を攫って淀んだ水辺を澄ませたかのようであり,光は隅々まで届いた。その頃,斗宿・牛宿の星座に亡国の兆しが現れ,夜空の星々に暗く輝いた。天子の威風を旋風(羊角)のように広めるため,遥か遠く雲外にある国への遠征を決めた。

 祢公は百済人であり,百済の国都・熊津出身の貴族でした。熊津は現在の韓国・忠清南道公州市にあり,475年に百済が高句麗軍に国都・漢城を陥落された時,再興後の国都になります。
 祢公の先祖は西晋の時代,七王の乱に始まる戦乱を東に逃避したといいます。永嘉(307-313)の末年に東に逃れたということなので,永嘉5年(311)から6年(312)にかけて前趙の劉聡が西晋の洛陽,長安を攻略し西晋の懐帝が捕らえられた時,祢公の一家は朝鮮半島に逃れたと思われます。逃避先に朝鮮半島を選択しているため,山東や遼東に在住していたと思われます。
 祢公の一家が永嘉年間に熊津に亡命したとすれば,当時,熊津は「久麻那利くまなり」と言い,馬韓に代表される国家群の一つでした。「久麻那利」は『日本書紀』雄略紀に記載されている熊津の古名です。475年に百済が滅亡した後,雄略天皇(倭王武)は馬韓の地の一部を割いて百済・文周王を即位させたといいます。(『日本書紀』雄略紀21年3月)
 つまり祢公の一家は百済に最初から仕えていたわけでなく,最初は馬韓の住民だったということになります。しかし雄略天皇(倭王武)が百済再興のため熊津を百済・文周王に割譲した際,祢公は百済の重臣(佐平)として登用されたと思われます。

『祢公墓誌銘』を読む②

 去る顕慶五年,官軍は本藩を平らげし日,機を見て変を識り,杖剣,帰すことを知らせる。由余14の戎を出ずることに似たり。金磾子15の漢に入ることが如し。
 聖上,嘉嘆し,ぬきんでること栄班を以てし,右武衛滻川さんせん府折沖都尉16を授く。時に日夲17ひとう餘噍よしゅう18,扶桑に拠りて以て誅をのがれる。風谷の遺甿いぼう,盤桃19を負いて阻固なり。万騎,野をわたり,蓋馬とともにし以て塵を驚かす。千艘,波を横たわり,原虵げんじゃを援けてほしいままにする。

『大唐故右威衛将軍上柱国祢公墓誌銘并序』
現代語訳

 去る顕慶5年(660年),官軍は本藩(百済本国)を平定した日,袮公は機を見て事態の変化を認識し,唐に帰順した。この行為は戎族の由余が秦の穆公に仕え,金磾子(金日磾)が漢に帰化したのと同じである。
 聖上(唐・高宗)は感激し、高官に抜擢し,右武衛滻川府折沖(折衝)都尉に叙任した。
 時に日本にいる餘噍(残党)は扶桑(東方)に拠点を構えて誅罰を逃れていた。百済の遺民は平和でしかも堅固な地に拠っている。何万騎もの軍勢が戦場を駆け巡り,戦馬が通った後は戦塵が舞っていた。千艘もの軍船が水波を横断し,水中に棲む大蛇の加護によりこの大海を自由に進んだ。

 顕慶5年(660年),唐は百済に侵攻し百済・義慈王を捕縛しました。袮公(袮軍)は百済滅亡時に唐に降伏しました。この後,百済遺臣は倭国(日本国)に人質となっていた豊璋を擁立し百済再興の戦いを始めますが,662年に百済の白村江(錦江河口付近)の戦いで敗北し百済再興の芽は完全に摘まれました。
『袮公墓誌』では,660年の百済滅亡は記載されていますが,その後の再興戦については記されていません。その代わり「日夲の餘噍,扶桑に拠りて以て誅を逋れる」と記しています。この部分は解釈が難しいところですが,まず倭ではなく「日本(夲)」と記している部分について,この時期,倭国とは別に日本国が存在していました。根拠は『旧唐書』東夷伝に倭国と日本国が別々に立てられていることです。
 以下,『旧唐書』からの引用です。

 日本国は倭国より分派した国である。その国が太陽(日)の近くにあることにちなんで「日本」と名付けたという。または倭国という名前自体が美しくなかったので「日本」と改めたという。
 その他では,日本は小国だったが,倭国の地を併呑したとも言う。
 唐に入朝する日本国の人間の多くは尊大である。誰も本当のことを語ろうとしない。そのため中国は入朝する者の言葉を疑っている。

『旧唐書』巻199上 東夷伝 日本伝

『旧唐書』日本伝には引用部分の後に遣唐使に関する記事が続きます。その遣唐使は粟田真人であり,長安3年(703)に貢納した旨が記されています。
 しかし703年以前の遣唐使の記録は『旧唐書』日本国伝にはありません。一方,『旧唐書』倭国伝には648年に「新羅に附し表を奉ず」との記録があります。こちらについては648年以降の記録がありません。648年は孝徳天皇の治世であり,左大臣・阿倍内麻呂と右大臣・蘇我山田倉麻呂が存命の頃でした。この両名は乙巳の変の立役者であり,24歳の若さでありながらも皇太子・開別皇子が実権を完全掌握していた時期でもあります。
 倭国の遣唐使の記録が途絶えた理由については,649年に阿倍内麻呂が病死し,続けて陰謀により蘇我山田倉麻呂が誅殺されたことで乙巳の変の首謀者であった開別皇子の権勢に翳りを見せたことが関係していると考えています。なぜなら,阿倍内麻呂の跡を継いだ左大臣・巨勢徳多は,同じ頃,新羅が唐の服制に変えたのを知り,新羅討伐を主張するほどの急進派だったからです。
 その後,孝徳天皇は難波京に遷都しましたが,653年,葛城皇子が倭京(飛鳥)への遷都を孝徳天皇に進言し,孝徳天皇から拒否されると葛城皇子は母(皇極上皇)や妹(間人皇后。孝徳天皇の皇后)を連れて倭京に引き上げてしまいました。『日本書紀』孝徳紀では倭京への還御を進言したのは「皇太子」と濁していますが,これを主導したのは開別皇子ではなく,舒明天皇と皇極上皇の子である葛城皇子です。
 654年,孝徳天皇は崩御すると,『日本書紀』は皇極上皇(重祚)が継いだことにしていますが,まずこの展開はあり得ません。なぜなら,孝徳天皇には皇太子(開別皇子)がいるからです。しかも開別皇子は皇極上皇の息子でもあります。息子を差し置いて母親が重祚するなど,よほどの理由がなければ考えられません。
 しかし斉明天皇の重祚にはやむを得ない事情がありました。その理由は,開別皇子の施策に群臣が反発していることです。
 開別皇子は648年に唐に国書を送っていることから分かるように,親唐派(保守派)です。653年に孝徳天皇から離れたのは葛城皇子を支持する急進派です。こちらは葛城皇子を擁立したかったのでしょうが,何分にも若すぎたため,やむなく皇極上皇(斉明天皇)を担ぎ出しました。本来,斉明天皇は重祚するつもりもなかったのだと思います。しかしこのまま放置すれば国内は二分され,開別皇子と葛城皇子との間で骨肉を分けた内訌が勃発するのは火を見るよりも明らかであったため,やむなく重祚の道を選んだのだと思います。
 ここまでの流れを整理すると,孝徳天皇の跡を継いだ開別皇子は倭国の天皇です。しかし倭国には兄弟統治があり,群臣の支持を受けて重祚した斉明天皇は日弟王の立場にありました。倭国の兄弟統治では,兄よりも弟に実権があります。そのため斉明天皇は日弟王として倭国の実権を掌握し,天兄王の開別皇子の政務を停止しました。この時,『旧唐書』に「日辺にあるを以て,故に日本を以て名とす」と記されているように,斉明天皇を担ぎ出した急進派は国号を「日本」に改めました。『旧唐書』日本国伝によれば日本の使者は矜大であったといいますが,急進派が集まっている日本国ではそれも当然のことかと思います。そもそも急進派は,隋の煬帝に強圧的な国書を贈った上宮法王の時代を夢見ており,唐と親交を結ぶ開別皇子の施策を支持していなかったからです。
 660年,百済が唐により滅亡すると,日本国の斉明天皇は百済再興のため西征します。斉明天皇は九州の地で崩御されますが,日本国の皇太子であった葛城皇子が斉明天皇の跡を継いで継戦します。
 葛城皇子は661年に即位します。『二中歴』の年代歴には,この年に白鳳に改元しています。
 662年,日本軍は白村江の戦いで唐の水軍により壊滅させられました。これにより百済再興の道は完全に閉ざされました。
 さて長くなりましたが,『袮公墓誌』の「日夲の餘噍,扶桑に拠りて以て誅を逋のがれる」は,「百済の残党が日本におり,唐の処罰から逃げている」ことを意味しているのは理解していただけると思いますが,もう少し裏の背景を読むと,斉明天皇(または葛城皇子)を擁立した急進派の日本国が支援している百済の残党という意味かと考えます。
『袮公墓誌』にはこの後,「簡帝」と「僭帝」の2人の人物が登場します。これは日本列島に2人の「帝」がいたことを意味します。

『祢公墓誌銘』を読む③

公の格謨かくぼ20を以て,海左かいさ21亀鏡ききょう22とす。瀛東わいとう,特に簡帝あり。きてしかばねを招慰す。
公,臣節にしたがい命を投げ,皇華こうかを歌うに載馳さいち23を以てす。飛べる汎海はんかいの蒼鷹, びし凌山りょうざんの赤雀なり。
決河24眦み,天呉静まれり。風隧25を鑑がみて,雲路通ず。かもを驚かし侶を失い,なしとげるに夕を終えず。遂いに能く天威暢るを説く。喩えるに禍福を以て千秋とす。
僭帝,一旦臣を称す。仍ち大首望数十人をひきいて,将に入朝し謁す。特に恩をこうむり,左戎衛郎将を詔授す。
しばらくして右領軍衛中郎将,兼検校熊津都督府司馬に選遷せんせんす。材光は千里の足たり,仁副は百城の心なり。燭を霊臺に挙げ,しるし芃棫ほうよくに器す。
月,神府にかかり,かぐわしく桂符をおおう。衣錦,昼に行き,富貴はあらためることなし。雚蒲かんほ26は夜寝て,字育じいく,方にあり。

『大唐故右威衛将軍上柱国祢公墓誌銘并序』
現代語訳

 袮公の計画により海域の勢力を支援し模範とすることにした。特に瀛東(極東)には簡帝がおり,袮公はそこに赴いて今回の戦争で亡くなった戦死者を慰霊させようとした。
 袮公は臣下の節度により身命を賭けて,『詩経』の載馳の故事を引き合いに出して亡国の復興に賭ける想いを訴えた。これは蒼鷹が大海を飛び,嶮しい山を赤雀が羽ばたこうとするぐらい困難を伴うものであった。しかし決壊した河を睨みつけると天下は静まり返った。この時,風の通り道を察して航路が開けた。そこで近づいて鴨(日本の残党)を驚かせたところ仲間を失い,夕べを待たずに目的を果たした。皇帝の勢威により説き伏せることに成功した。譬えるならば,禍福千秋(災禍も吉祥も永遠に続く)のようなものである。
 僭帝は一旦臣下を称し,数十人の大官を率いて唐国に入朝し皇帝に拝謁した。袮公は特別に勲功を讃えられ,左戎衛郎将を除授された。
 しばらくして右領軍衛中郎将,兼,検校熊津都督府司馬に補任された。その優れた才幹は千里の外にまで届き,その仁徳は百城の心を射止めた。その燭は霊廟に捧げられ,生い茂っているよく(たら。バラ科の低木)の中に目印をつけて人々にその才能を知らしめた。月が神府に懸かると,桂符(護符)がとてもよく包み込んだ。錦の衣を着て昼を歩き,袮公の富貴は留まるところを知らない。
 雚蒲のような雑草は寝静まり,教化(字育)は四方に及んだ。

 662年の白村江の戦い以後,日本国は継戦できなくなりましたが,日本列島には戦力を温存していた倭国(天智天皇)の一党がいました。前回も説明しましたが,唐と戦ったのは急進派の日本国であり,白鳳改元を行った葛城皇子です。以後,葛城天皇と呼ぶことにします。
 天智天皇は実権を持たない天兄王(倭国の天皇)でしたが,白村江の戦い後,日本国の戦力が低下したため,相対的に倭国(天智天皇)の国力は強まりました。
『袮公墓誌』には「簡帝」と「僭帝」が存在しますが,文脈よりこの2人の帝は同一人物ではありません。そして袮公が最初に交渉を持ち掛けた「簡帝」は倭国の天智天皇です。その後,臣下を称することになった「僭帝」は葛城天皇です。『袮公墓誌』には,「僭帝」について敢えて「一旦臣を称す」と記していますが,「簡帝」についてはその記載はありません。「一旦」というのは「僭帝」が臣下の礼を取った後,再び背いたからです。これは新羅・文武王が670年に唐に対して反旗を翻したのと関係がありますが,それについては別の機会で解説します。
 話を元に戻すと,「僭帝」は仮とはいえ,唐に臣従しました。これは「僭帝」すなわち急進派の葛城天皇にとって屈辱以外の何物でもありません。これにより多くの急進派の人々が葛城天皇を見限ることになりました。大海皇子もその一人であり,天智天皇の下についたのもこの時期であったと思われます。
 ところで,この時期,袮公について『日本書紀』天智紀に次のような記事があります。

 天智4年(665年)9月23日、唐国の朝散大夫沂州司馬・上柱国劉徳高等を派遣した。(割注:「等」というのは,右戎衛郎将上柱国百済袮軍,朝散大夫柱国郭務悰など,およそ254人を指す)

『日本書紀』天智紀 4年9月23日

『日本書紀』天智紀に登場する袮軍は,『袮公墓誌』の被葬者その人です。袮軍は678年に66歳で薨去するため,この時は53歳でした。
「僭帝」が臣下の礼を取らせた功績により袮軍は左戎衛郎将(『日本書紀』では右戎衛郎将)に叙任されています。つまり『日本書紀』天智紀4年の時,袮軍はすでに左戎衛郎将であったため,665年以前に日本に来訪し,「僭帝」を降伏させていたことが分かります。

『祢公墓誌銘』を読む④

去る咸享かんこう三年十一月廿一日,右威衛将軍を詔授しょうじゅす彤闕とうけつ27局影きょくえい28し,紫陛しへい29飾恭しょくきょうす。すみやかに栄晋えいしんこうむり,にわかに暦,便ちしげる。方に克壮30,清猷31永綏えいすい32,多祐と謂えり。豈,はか りて曦馳ぎし33し易く往かんや。霜,馬陵の樹にれる34。川て留まり難く,風驚かし,龍驤りゅうじょう35の水をかなしむ。
以て儀鳳ぎほう三年歳,戊寅つちのえとら二月朔戊子つちのえね十九日景午,やまいい,雍州長安県の延寿里えんじゅり第に薨ず。春秋六十有六なり。

『大唐故右威衛将軍上柱国祢公墓誌銘并序』
現代語訳

 去る咸享3年(672)11月21日,袮公に詔が下り,右威衛将軍に叙任された。将軍任官という大命の重さから恐懼する思いであり,天子の威光はさらに増していった。すぐに栄達し,運命は勢いよく上昇した。まさに強盛,緻密,永綏,天祐という表現が当てはまる。どうして計画したからといって光のように簡単に戦場に駆けつけられるだろうか。かつて魏の龐涓が斉の孫臏の策謀に掛かって敗れた馬陵の樹は霜が降りて枯れている。川は増水してその場所に留まることが難しい。風は荒れており,大船団を渡海させられなかった。
 儀鳳(678)3年2月19日,午の刻(12時),病に罹り,雍州長安県の延寿里の屋敷で薨去した。66歳であった。

 668年,唐と新羅の連合軍は高句麗を滅亡させました。高句麗は642年に蓋蘇文がクーデターを起こし,宝蔵王を即位させて実権を掌握して以来,唐の侵攻を何度も受けましたがその都度,蓋蘇文は撃退してきました。ところが666年に蓋蘇文が薨去すると,高句麗国内で内訌が勃発し,蓋蘇文の長男・男生が唐に亡命する事件が起きました。
 668年,唐は新羅と共同で高句麗を滅ぼしました。ところが新羅は唐が占領した高句麗と百済の遺領を奪うため,唐に対して戦端を開きました。(唐羅戦争)
 袮公は672年,右威衛将軍に叙任されています。これは唐羅戦争に指揮官として送り込むためであったと考えられます。
 しかしこれは成功しませんでした。この時,唐は新羅の侵攻に対して劉仁軌,薛仁貴といった将軍が応戦しましたが徐々に劣勢となり,最後は朝鮮半島からの撤退を余儀なくされました。
『袮公墓誌』では,「馬陵の樹」と記すことで新羅との戦いに敗北したことを暗喩しているので,おそらく新羅との戦いに従軍したものと思われます。
 袮公はその後,長安で亡くなります。66歳でした。

脚注

  1. 「蕩」は蕩ける,乱れる。「沃」は潤う,みずみずしい。「潤っていたのが乱れる」の意。 ↩︎
  2. 「蔽」は覆い隠す。「虧」は欠損,欠点。「欠点が見当たらない」の意 ↩︎
  3. 七子は,魏王武(曹操)の下に集まった「建安の七子」(孔融,陳琳,徐幹,王粲,応瑒,劉楨,阮瑀)と呼ばれた文人 ↩︎
  4. 駿馬のこと ↩︎
  5. 「擅」は天子が位を譲ること。西晋の懐帝の禅譲を指していると思われる ↩︎
  6. 立派な家屋 ↩︎
  7. 「緝」は捕らえる,和らげる。文脈より「治安維持」または「統治」の意 ↩︎
  8. 光身は真裸のこと ↩︎
  9. 天爵は,自然に備わった徳行のこと ↩︎
  10. 松筠は松と竹 ↩︎
  11. 「笵」は規範,手本 ↩︎
  12. 星座の斗宿,牛宿のこと。牛斗の逸気とは3世紀末,晋が呉討伐の計画した際に群臣が数多く反対する中,張華は「斗牛の間に運気がある」ことを理由に呉討伐を主張し成功させたという逸話がある。(『晋書』巻36 張華列伝)おそらくその古事に因んだものと思われる ↩︎
  13. 「影」は物を照らす光。「征」は敵を討伐すること。天使の眩い光により討伐する意 ↩︎
  14. 中国の春秋時代,秦の穆公に仕えた賢人 ↩︎
  15. 金日磾の名で知られる。匈奴出身。前漢・武帝の時代に匈奴の渾邪王が投降した際にともに前漢に降った。武帝の信任が厚かったという ↩︎
  16. 折衝都尉は地方の軍事行政機関。滻川は滻水とも言い,唐の都・長安の付近を流れ渭水に合流する ↩︎
  17. 夲は「本」の異体字。『旧唐書』倭国日本国伝に記されるように,日本国を指す ↩︎
  18. 遺甿は遺民のこと。風谷は「国を喪った人々が家屋を失い,風が吹き荒ぶ野原や谷あいで暮らしている」という意。つまり「風谷の遺甿」は百済の遺民を指している ↩︎
  19. 盤は大皿。「盤桃」は大皿に載った桃の意。桃源郷などの言葉にも表されるように,桃には平和の象徴の意もある。ここでは文脈より,安寧・平和な地という意味と考える ↩︎
  20. 格謨は高位の人物が立てた計画。この場合,前後の文脈より袮公が立てた計画と読む ↩︎
  21. 「左」はたすけるの意。海を助ける,つまり「海の向こうにある勢力を支援する」と解釈する ↩︎
  22. 模範の意 ↩︎
  23. 『詩経』より。春秋時代,衛国が狄族により占領された後,許国に嫁いでいた穆夫人が祖国の危機を救うために曹邑に駆けつけた故事による ↩︎
  24. 「決」は決壊する意。「決河眦」は堤防が決壊して荒れ狂った河を睨みつけたの意 ↩︎
  25. 風のトンネル。風の通り道の意 ↩︎
  26. 「雚」はがんこうらん(草)。「蒲」はがま(水草) ↩︎
  27. 「彤」は赤,「闕」は天子の宮殿の門 ↩︎
  28. 恐怖し縮まる思いで保身を図ること ↩︎
  29. 天子の威光のこと ↩︎
  30. 強盛のこと ↩︎
  31. 明確な計画 ↩︎
  32. 永らく安泰なこと ↩︎
  33. 「曦」は太陽,日差し。「馳」は馬で駆けること。光のように広く駆けるの意 ↩︎
  34. 「霜凋れる」は,霜が当たった葉は枯れるの意。馬陵は戦国時代,魏の龐涓が斉の孫臏の罠に嵌められて敗北した戦いの場所 ↩︎
  35. 大きな船のこと ↩︎

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