413年:倭国,高句麗が東晋に遣使

『晋書』に唯一記録された倭国遣使の記事

 倭人の歴史を詳らかに記録した『三国志』魏志倭人伝ーー。
 晋の武帝(司馬炎)が三国志の時代に終止符を打ったものの,晋の皇族同士の内乱(八王の乱)により異民族の侵攻を招き,懐帝(司馬熾しばし),愍帝びんてい司馬鄴しばぎょう)は異民族の前趙・劉聡に捕殺され,316年に滅亡しました。この時滅亡した晋は長安に都があったことから西晋と呼ばれます。
 その頃,皇族の司馬睿(元帝)が三国時代に呉国の都であった建業で即位し,晋帝国を再建しました。この晋帝国は東晋と呼ばれ,420年まで続きました。
 晋帝国の正史は『晋書』と呼ばれ,7世紀,唐の太宗の時代に編纂されました。そのため晋帝国を滅ぼした南朝宋の正史『宋書』がほぼ同時代に編纂されたのに対して,『晋書』は200年以上経過してから編纂されたため,一次資料としての価値は『宋書』と比較するとそれほど高くありません。
 倭国についても特に目を引く記事はなく,『晋書』東夷伝(巻九十七)に触れられていますが,『三国志』魏志倭人伝の抄録に過ぎないのが実情です。
 目を引く記事がない中で,たった一つだけ,唯一性のある倭国の記事が次の引用文になります。

とし,高句麗、倭国及び西南夷の銅頭どうとう大師はとも方物ほうぶつ(地方の産物)を献ず。

『晋書』巻十・義熙九年(413年9月)

とし」とは413年のことを指しており,東晋滅亡の7年前に当たります。時の皇帝は安帝(司馬徳宗)と言い,396年に即位しましたが,国内では反乱が相次いでおり,403年には桓玄により禅譲を強要されました。
 桓玄は桓楚を建国し,東晋は一旦滅亡します。しかし桓玄は東晋の再興を掲げた劉裕によって殺害され,桓楚はすぐに滅亡しましたが,今度は劉裕の権力が強まり,東晋はいつ滅亡してもおかしくない状況だったのです。
 このように東晋は滅亡間近でしたが,それでも遣使した倭国の狙いとはいったい何だったのでしょうか?

新羅を巡る倭国との戦いについて

 5世紀初頭,倭国は朝鮮半島南部に割拠していた新羅の従属を巡り,高句麗と熾烈な戦いを繰り広げていました。時の高句麗・広開土王は倭国との戦いを石碑に刻み,後代にまで伝えています。この石碑は『広開土王碑』と呼ばれ,391年から404年までの間,倭国と何度も戦ったことが記されています。
 時の新羅王は奈勿なこつ尼師今にしきんと言い,402年に薨去するまでの間,何度も倭軍と戦いました。
 奈勿王は391年に倭軍に侵攻された翌392年,高句麗に伊飡いさんの大西知の子,実聖じっせいを人質に差し出しました。(『三国史記』新羅本紀・奈勿尼師今37年正月)
 伊飡は新羅の第2位の重臣にあたります。奈勿王は重臣の子を高句麗に差し出すことで,高句麗の援軍を引き出そうとしたのです。
 しかし人質に出された実聖は奈勿王のことを恨んでいました。奈勿王が高句麗を裏切って倭国と同盟を結ばれると,実聖は見せしめとして殺されてしまうからです。
 実聖は生きた心地がしないまま,10年間,高句麗で人質生活を送りました。
 実聖にとって転機が訪れたのは402年,奈勿王が薨去した時でした。奈勿王には訥祇とつぎ王子という長男がおり,太子の地位にいました。奈勿王の薨去後,王太子の訥祇王子が跡を継ぐはずでしたが,盟主の高句麗・広開土王が異を唱え,人質の実聖を新羅王として送り込んできたのです。
 訥祇王子は高句麗の強圧に否と言えず,王位を実聖に譲りました。

 実聖は即位後,奈勿王の子,未斯欣みしきんを倭国に人質に出しました。新羅と倭国はその後も戦いを続けているため,実聖が未斯欣を倭国に人質に差し出したのは,倭国との同盟ではなく,奈勿王に対する復讐でした。奈勿王は未斯欣に対して大した感情を持ち合わせておらず,倭国との戦争がなくなれば良し,倭国が新羅に対して激怒し未斯欣を殺害しても良し,という程度の情しかありませんでした。
 しかし倭国も新羅の内情は把握していたので,未斯欣を新羅との人質ではなく,新羅王の対立派閥の要人として優遇しました。
 そのため倭国と新羅は実聖王の即位後も引き続き戦い続けたのでした。

413年に何が起きたのか?

 413年,実聖王にとって最大の庇護者であった高句麗・広開土王が薨去しました。広開土王は人質時代,実聖王が世話になっており,この信頼関係があったからこそ,新羅は高句麗から援軍を引き出すことができました。
 広開土王の薨去後,長子の巨連きょれんが即位すると,さっそく問題が起きました。後に100歳近くまで生きたことから長寿王の名で知られる王ですが,当時は20歳の若者であり,実聖王との絆は当然ながらありません。
 ここで倭国は若い高句麗王に先んじて東晋に遣使することで,朝鮮半島南部の支配圏を中国の王朝に公認してもらい,新羅を従属させられないかと考えました。これは倭王讃以降,「使持節,六国諸軍事(倭,百済,新羅,任那,慕韓,秦韓)」に除授されようとしたのと同じ動機になります。
 倭国の動きに対して,高句麗・長寿王も東晋に遣使し対抗しました。もともと高句麗は隣国の燕に朝貢していたため,長寿王の即位を東晋に報告するため義理などありませんでした。
 高句麗が東晋に遣使したのは,倭国の妨害行為にありました。
 倭国と高句麗はそれぞれ新羅の盟主の立場を主張し,高句麗・長寿王は高句麗王,楽安郡公に封じられたと言います。(『三国史記』高句麗本紀・長寿王元年)
 一方,倭国の主張は認められませんでした。
 倭国は激怒し,新羅への侵攻を開始しました。
 415年8月,倭国は新羅と風島で戦い,敗れたと言います。(『三国史記』新羅本紀・実聖尼師今14年)
 こうして新羅を巡る倭国との戦いは再開されましたが,2年後の417年,実聖王の弑殺という予期しない事件が,倭国との関係をさらに悪化させていくのでした。

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