津保化族のこと
奥州東日流奥法郡飯積邑
石塔山麓羽覇岐神社(大山祇神社)
鎮座御神体守護由来書による東日流に阿蘇部族が渡来し,居住し始めてから数万年が経った頃,津保化族というものが東日流に渡来し,阿蘇部族の狩猟区域を侵すようになった。
『東日流外三郡誌』津保化族伝話 ※現代語訳(拙訳)
この津保化族というのは「ツモ」と自称していた。
津保化族の狩猟は馬で駆け,弓で狩り,海に出ては船網で漁業し,土を焼いて器を造り,常に火を使って食事をした。
石を器としているが,研磨したものを使い,よく切れる刃物があり,使っても一度で壊れたりせず,修復できなくなるぐらいまで使った。
樹皮,草皮を剥ぎ,糸を紡いで織った衣服は「マンダ」といい,クマなどの大獣の毛皮を,毛の方を内側にして,二枚を合わせて縁を縫って「ツト」と呼ぶ寝袋とした。
住居は木で組み,丸型に寄せて内側を掘り,ハツボという屋根に煙出を作り,葦で囲み,雨を抜く溝を作って家としたものを「クケ」と呼び,それよりも大きくしたものを「カツチヨ」,さらに大きくしたものを「チヤシ」,それ以上に巨大なものを「ポロチヤシ」と呼んだ。
狩猟で使用する道具は,グス(矛),ブポ(吹き矢),タシロ(刃物),トグス(弓矢),ゼリ(毒汁),アラ(石斧),タナ(投げ縄),クカシ(仕掛け罠),イドシ(落とし穴),ツテ(銛),バヅ(そり),ナダラ(籠),ゴグ(焼豆)である。
漁業で使用する道具は,ヅダ(筏),カギ(丸太舟),ビギ(藻引棹),ハフ(網),キリコ(釣り針),シテ(底見箱),ヤス(突銛)といったものであり,今でも多くのものが残っているという。
【解説】
『東日流外三郡誌』は江戸時代の三春藩の大名であった秋田氏の縁者が各地の伝承を集めて編纂された文献であり,今回紹介している記事は石塔山(青森県五所川原市)にある大山祇神社の由緒書を収集したものになります。
石塔山の付近には青森県内で大規模遺跡で有名な三内丸山遺跡があり,三内丸山遺跡は陸奥湾と繋がっているため,交易も盛んであったことが窺えます。
原住民である阿蘇部族は岩木山(青森県弘前市)を拠点としていましたが,津保化族の侵略を受けて阿闍羅山に避難したと言います。(東日流外三郡誌『阿曽部族の災滅』)
原住民である阿蘇部族がパン大陸水没前から存在したと考える場合,この阿蘇辺族は闇落ちしたイフアン人の可能性があります。このイフアン人は創造主がパン大陸を沈めることになった原因である闇落ちした種族です。
この阿蘇部族の後に津保化族が渡来し,長らく阿蘇辺族と抗争していましたが,異国から渡来した人々と津保化族が混血した結果,強盛を誇るようになり,阿蘇辺族は内陸の不毛地帯へと追いやられることになりました。
一方の津保化族は海外との交易を盛んに行い,繁栄していきました。
石塔山の大山祇神社に津保化族に纏わる伝承(由緒)が残っているのは,この地が津保化族の支配域だったからだと考えます。そしてこの地に残る縄文遺跡が日本の他の地域と較べて段違いに発展しているのは,神々の叡智を聞くことができたイスタのイヒン人の影響があったからではないかと思います。
この影響の最たるものが,石塔山大山祇神社の由緒書に記されている定住生活を仄めかす内容です。特に「チヤシ」と呼ばれる大住居は実際に三内丸山遺跡でも発掘されています。
この巨大な住居は個人宅ではなく,集会所であったと思われます。百人以上を収容できるスペースがあり,これほどの巨大空間はただの「ムラ」ではなく,「クニ」として機能していたように思います。
日本に渡来したイヒン人は数少ないため,三内丸山遺跡とほぼ同時期に発展した世界4大文明(メソポタミア,インダス,エジプト,黄河)と較べるとその規模は小さいですが,その内容は4大文明と比較しても遜色がありません。
この4大文明はパン大陸水没後に移住したイヒン人(セム,ハム,ジャフェス)の影響を受けていると考えられます。それならば,この規模の同時代の遺跡が残っているこの地域の縄文遺跡群もまた,イヒン人(イスタ)の影響を受けていると考えても不思議はありません。
これが,イスタのイヒン人が渡来した先として津軽地方を挙げる理由になります。
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