【OAHSPE考察3-2】東日流外三郡誌『阿曽部族の災滅』

奥州の津刈つがるの大浦の地に,太古の昔に阿曽部族という津刈つがるに土着した民がいたが,突如として地震が起こり,地中から火が噴き出てその火泥によって阿曽部一族はことごとく滅んでしまった。
この時,阿闍羅あじゃら山に逃れた阿曽部一族は津保化一族の権力の下に制せられ,長らくその奴隷となったが,阿曽部一族の加無礼かむれという武将が決起して津保化族の権勢に対抗して戦った。
この時,津保化族の阿左津貴あさつきという将が中山にいた同族の援軍がなかったため敗北し,阿闍羅あじゃら山一帯の領地は阿曽部一族が掌握することになった。
阿曽部一族は山で暮らし,津保化族は海辺で暮らした津刈の土民である。この民は生活のための資材の交換のための交流を行っておらず,境界を侵犯して争っていたが,巌鬼いわき山の噴火で阿曽部一族の故地は失われ,津刈全土は全て津保化一族が掌握してしまったが,阿曽部一族が何世代か忍耐の日々を過ごした後,再起した。
その頃,両部族は南平賀川を境として,東西を国境と定めて和睦したが,盛多大館から安東浦,西浜の津保化族がこれに反対して,阿曽部一族と巌鬼いわき山麓で戦った。
その頃,津保化一族は異国から漂着した一族と混血し,荒吐神の名を襲名して荒吐一族と称し,その勢威をもって阿曽部一族をことごとく滅ぼした。
しかし荒吐族の同族の津保化族の一派が中山にいて,難を逃れた阿曽部一族の者と盟約を交わして荒吐一族に反抗し,旧習を守った。
この争奪が長く続き,子々孫々何世代にも渡って戦ったが,安日彦命,長髄彦命が耶馬台国から逃れて荒吐一族に加勢すると,中山の津保化族,阿曽部はことごとく討伐された。
それ以降,阿曽部一族や津保化一族は何度も反撃したが常に敗れたという。

『東日流外三郡誌』阿曽部族の災滅 ※現代語訳(拙訳)

【解説】

津軽地方には縄文前期の遺跡も存在しており,大平山元遺跡では15,000年前の土器片などが見つかっています。パン大陸水没から1万年後のことであり,土器を製作する技術はあったことが分かります。
阿蘇部族がパン大陸水没前から存在していた土民だとすると,水没前のワガ大陸(パン大陸)とは地続きか,もしくは移動可能な地域であり,しかもOAHSPEの描写から想像するに,パン大陸は十分な文明が育っていた可能性があるため,その文明が流れ込んでいたとすると,日本がOAHSPEの記述通り,パン大陸の残滓であるならば,その文明の遺跡もどこかしらに発見されもよさそうなものです。
逆に発見されないのであれば,日本列島はパン大陸の中でも見向きもされない場所であったため,水没前は人がほとんど住んでいなかった可能性もあります。(もしくは海や山の幸が豊富だったため,文明を必要としていなかった可能性もあります)
逆にそういった地域で定住するようになったきっかけに疑問が残ります。
私的な意見で言えば,パン大陸は太平洋の下に水没したと考えています。そこに海底遺跡が発見されれば,パン大陸の文明度合も推測できる気がします。
その文明度合が分かれば,津軽地方の縄文遺跡群がパン大陸の文明から流れてきたものなのか,それともパン大陸水没後にもたらされた文明なのかが分かると思います。

今回引用した『東日流外三郡誌』の「阿曽部族の災滅」は,要約すると阿曽部族は地震と噴火で滅亡の危機に瀕したものの,その一部は阿闍羅あじゃら山に難を逃れ,津保化族と長年抗争し,最後は津保化族が異国から漂着した一族と混血して結成した荒吐族によって滅亡させられたとなります。
大平山元遺跡の土器の技術が,パン大陸から流れた文明ではなく,異国から漂着した一族がもたらしたものだとすれば,荒吐族の結成や,イスタに流れ着いたイヒン人の手掛かりもこの遺跡に残っている可能性があると思います。

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