[人物伝]古人大兄皇子

出生

 古人皇子の生年は分かりませんが,推測する手掛かりはあります。
 開別皇子が乙巳の変(645年)の時に皇極天皇から譲位を打診された際,中臣鎌足が中大兄皇子を諫める際,次のように言いました。
 「古人大兄は殿下の兄なり」(『日本書紀』孝徳紀即位前)
 開別皇子が乙巳の変の際,21歳でしたので,古人皇子はそれよりも年上だったかと推測されます。
 古人皇子の父は舒明天皇であり,母は蘇我馬子の娘,法提郎女ほていいらつめといいます。
 舒明天皇は『本朝皇胤紹運録』によれば37歳で即位し49歳で崩御されたといいます。開別皇子は舒明天皇の崩御の際,誄を16歳で読んだと『日本書紀』舒明紀13年に記されているので,仮に古人皇子が開別皇子よりも年上の20歳だとしたら,生年は620年前後となります。
 620年は上宮天皇の全盛期にあたり,大臣の蘇我馬子も健在でした。その頃,舒明天皇は田村皇子といい,20代後半の若者でした。そのため蘇我法提郎女ほていいらつめも同年齢かもう少し若かったのだと思われます。
 つまり法提は蘇我馬子が50歳頃に儲けた娘であり,年を老いるほど末娘への愛情は強くなる傾向があるため,馬子は愛娘をきっと断腸の思いで田村皇子に嫁がせたことと思います。
 不思議なのは,馬子が愛娘の法提を上宮天皇の皇族に嫁がせなかったことです。しかし考えれみれば馬子の選択は最良の選択であり,田村皇子の両親はかつての天兄王・押坂彦人皇子と,敏達天皇の娘・糠手姫皇女であり,仮にどこかで天兄王家が復活する場合,法提はその皇后となる可能性がありました。
 馬子はそのことを自分の子供たちにも伝えており,やがて大臣を継ぐ蝦夷も法提とその夫の田村皇子を気にかけていました。
 田村皇子は法提との間に古人皇子を儲けました。古人皇子は母の実家がある豊浦の蘇我邸で育ちました。

舒明天皇の即位

 倭京5年(622年),上宮天皇が崩御されました。次の天皇には蘇我馬子の外孫にあたる山背皇子が擁立されました。和諡号もないため,仮で山背天皇と呼ぶことにします。
 翌年,山背天皇の即位式が行われ,仁王に改元されました。
 上宮天皇は在位31年と長きに渡って在位しており,近隣の諸外国に対してその知名度は絶大なものがありました。かつて隋の皇帝(煬帝)に「日出る処の天子が,書を日没する処の天子に致す」という過激な国書を贈ったのも,この天皇の在位の間でした。
 上宮天皇は倭国の誇りを守った天皇として,実は群臣から絶大な信頼を寄せられていました。その子供の山背皇子の即位に反対する群臣はいませんでした。
 しかし風向きが変わったのは仁王4年(626年)の蘇我馬子大臣の死です。蘇我馬子大臣は敏達天皇以来,40年以上倭国の国政に携わっていました。馬子大臣の死により,蘇我一族内で,馬子大臣の弟の境部摩理勢と,馬子大臣の息子の蝦夷との間で権力闘争が始まったのです。
 蘇我蝦夷は父の死後,大臣を継承しましたが,境部摩理勢は上宮天皇に重用されていたため,代替わり後も引き続き山背天皇に仕え,政権内で発言力を強めていました。
 蝦夷大臣は蘇我一族を当主としてまとめる必要があり,不穏分子の境部摩理勢の権勢を削ぎたいと内心思っていました。
 この時,蝦夷大臣が採った策は,押坂彦人皇子以来の兄弟統治の復活でした。狙いは,日弟王を擁立し,山背天皇の権勢を削ぐことで境部摩理勢の発言力を抑え込むことです。
 蝦夷大臣が目を付けたのは,押坂彦人皇子の子の田村皇子でした。当時,34歳の田村皇子はまだ若い山背天皇よりも安定感があり,それを理由に日弟王の擁立を企んでいました。
 日弟王の擁立は群臣内でも支持,不支持が分かれました。境部摩理勢は当然ながら山背天皇支持派として行動し,蝦夷大臣に徹底抗戦の構えを見せましたが,仁王6年(628年),境部摩理勢が蝦夷大臣によって粛正されると群臣の中で山背天皇を支持する人はいなくなり,仁王7年(629年),田村皇子(舒明天皇)は即位しました。

舒明天皇の崩御,皇極天皇の即位

 仁王8年(630年),舒明天皇の姪にあたる宝皇女が立后しました。宝皇后は用明天皇の皇孫にあたる高向王に嫁いでいましたが,それを離縁させてまで皇后に迎えられました。
 宝皇后は高向王との間に漢皇子を儲けており,舒明天皇のもとに連れ子として来ました。舒明天皇の王宮では開別皇子と呼ばれました。
 開別皇子は古人皇子と年が近いですが,皇后の子であるため,正嫡のような立ち位置にありました。
 宝皇后は舒明天皇との間に二人の皇子(葛城皇子,大海皇子)と一人の皇女(間人皇女)を儲けました。葛城皇子は正嫡であり,成人したら舒明天皇の後を継いで即位するはずでした。そこに古人皇子が割り込める余地はなく,古人皇子は皇位と無縁のまま育ちました。
 僧要6年(640年),舒明天皇が崩御しました。舒明天皇の崩御年について『日本書紀』舒明紀は在位13年目の641年にしていますが,実際は640年であったと考えています。(参考:2人いた中大兄皇子
 舒明天皇の崩御後,蝦夷大臣は擁立する皇子が若すぎる点に頭を抱えました。かつて山背天皇が若いことを理由に田村皇子を擁立しましたが,その山背天皇は壮年に差し掛かっており,一方で舒明天皇の皇子たちは若く,日弟王として強引に押し通せる状況ではなかったからです。
 蝦夷大臣はやむなく宝皇后(皇極天皇)を日弟王に擁立しました。年齢的には問題ありませんでしたが,女帝の擁立は倭国でも例が少なかったため,山背天皇や多くの群臣が皇極天皇の即位を疑問視しました。
 蝦夷大臣もそのことは十分理解していました。しかし若い古人皇子に山背天皇の相手を務めさせるのは荷が重すぎました。それでも強引に古人皇子を即位させようとするには,山背天皇とその一族を滅ぼすしかありませんでした。
 蝦夷大臣はそこまでの処置を取ることまで考えていませんでしたが,息子の入鹿は違いました。
 命長4年(643年)10月12日,蘇我入鹿は突如,山背天皇とその一族を急襲しました。当初,山背天皇は斑鳩の宮殿に住まわれており,そこで入鹿が派遣した軍勢に応戦していましたが,入鹿の軍勢が退却した隙をついて生駒山中に逃げ延びました。
 数日間,生駒山中で隠れた後,追手が来ないことを知ると山背天皇は蝦夷大臣がそこまで横暴なことをするはずがないと思い直し,生駒山から斑鳩の宮殿に戻りました。しかしそこを入鹿の軍勢に包囲され,一族もろとも自害に追い込まれました。蝦夷大臣は入鹿の軽挙に激しく怒りましたが,後の祭りでした。
 蝦夷大臣は古人皇子を日弟王に擁立し,皇極天皇はそのまま天兄王となりました。

乙巳の変

 古人天皇の即位により,母の法提郎女は皇太后となりました。法提の兄である蝦夷大臣とその息子の入鹿は皇族として振る舞うようになりました。
 この時期の蘇我一族について『日本書紀』は次のように記しています。

『日本書紀』皇極紀3年11月

 冬11月,蘇我大臣蝦夷,子の入鹿臣は,甘檮うまかしの丘に家を並べて建てた。大臣の家を「上宮門」と呼び,入鹿の家を「谷宮門(割注:谷は波佐麻はさまという)」と呼び,男女の子供を王子と呼んだ。家の外には城柵を作り,門の傍には武器庫を作った。各門には用水桶一つと,数十の木鉤を用意し,火災に備え,いつも屈強な兵士に家を守らせた。
 大臣は長直ながのあたいに命じて大丹穂おおにほ山に桙削ほこぬき寺を造営した。さらに家を畝傍山の東に建てて,池を掘って城とし,武器庫を建てて矢を備えた。いつも五十の兵士を引き連れて護衛とし,出入りした。

 蝦夷大臣と入鹿は明らかに襲撃を怖れていました。それでいながら,自分の子供たちを王子と呼ぶなど,傲慢な態度を隠さなくなりました。
 古人天皇は日弟王という立場にありましたが,実際は傀儡に過ぎず,陰の実力者は蝦夷大臣だったのかもしれません。古人天皇はそれでも構わないと思っていました。もともと皇位と無縁でありましたし,家族同然で育った蘇我氏が安泰であれば,少なくとも自分が害されることはないと思っていました。
 命長6年(645年)6月12日,三韓の貢調の儀が宮中で執り行われることになりました。三韓とは馬韓,弁韓,辰韓を指し,当時三韓はありませんでしたが,建前上,任那という国が残っていました。倭国が朝鮮半島内に勢威を維持していた頃,この儀式は盛大に執り行われていましたが,今ではほぼ形骸化していました。
 それでも皇極天皇と古人天皇は大極殿で三韓の使者と引見することになりました。
 三韓の使者が両天皇の午前に案内され,蝦夷大臣の弟の山田石川麻呂が上奏文を読み上げました。傍には入鹿も控えていました。形骸化しているとはいえ,三韓の貢調の儀は,倭国がいまだに任那に固執していることを示す示威行為の面もあるため,粗雑に扱えない事情がありました。
 山田石川麻呂が上奏文を読み上げてながら次第に顔色が悪くなり,入鹿が怪しんで「どうしたのか?」と聞いた時でした。突如,柱の陰から衛兵が飛び出してきて入鹿に襲い掛かり,殺害しました。
 入鹿の死後,古人天皇は寝所に逃げ帰り,次のように言いました。

『日本書紀』皇極紀4年6月12日

「韓人が鞍作くらつくり(入鹿の別名)臣を殺した。(割注:韓の政治が原因で誅されたという)
 私は心が痛い」

 入鹿を殺害したのは,開別皇子とその徒党でした。
 入鹿殺害後,開別皇子は阿倍内麻呂を味方に引き込んで,蝦夷大臣の邸宅を包囲しました。蝦夷大臣は入鹿の暗殺を既に知っていたため,包囲された蘇我邸で死を決意し,屋敷を焼いて自害しました。
 蘇我蝦夷,入鹿親子の死後,皇極天皇は息子の開別皇子に譲位することを告げました。しかし開別皇子はそれを断り,叔父の軽皇子を推挙しました。
 皇極天皇は弟の軽皇子(孝徳天皇)に譲位し,日弟王となり,古人天皇はそのまま在位し,天兄王となりました。しかし蘇我蝦夷,入鹿の死の影響は大きく,二人に仕えていた多くの群臣が古人天皇に庇護を求めてきました。蘇我蝦夷,入鹿の傀儡に過ぎなかった古人天皇は,庇護を求めに来る氏族の相手を面倒に思うようになりました。
 開別皇子はかつての蘇我蝦夷に仕えていた氏族に降伏勧告し,従わない場合は軍勢を差し向けて討伐して回っていました。このままでいけば,いつか古人天皇自身も討たれてしまう可能性がありました。ちょうど山背天皇が討たれたのと同じ末路を辿りかねない状況だったのです。
 古人天皇は出家を宣言し,吉野に籠りました。俗世間から逃れ,皇位を望まないと意思表示したつもりでした。 

崩御

 古人天皇は吉野に隠遁したつもりでしたが,蘇我蝦夷に仕えていた群臣は孝徳天皇に仕えるのを拒み,古人天皇を擁立して徹底抗戦する構えを見せていました。
 結局,古人天皇はこの運命から逃れることができず,9月に謀反の罪で討伐されました。

『日本書紀』皇極紀4年

 9月3日,古人皇子(割注:ある本に古人太子,古人大兄。この皇子は吉野山に入ったので吉野太子という)は蘇我我田臣川堀,物部朴井連椎子,吉備笠臣垂(割注:垂は之娜屢しだるという),倭漢文直麻呂,朴市秦造田来津と謀反した。
(割注:或る本に
 12日,吉備笠臣垂が中大兄皇子に自首した。「吉野の古人皇子が蘇我我田臣川堀らと謀反しました。臣はその仲間でした」
 ある本には,吉備笠臣垂は阿倍大臣と蘇我大臣にこう言った。「わたしは吉野皇子の謀反に加担していた者です。ただ今,自首しました。)

 中大兄皇子はすぐに菟田朴室古,高麗宮知に若干の兵を与えて古人大市皇子らを討伐させた。
(ある本には,11月30日,中大兄皇子は阿倍渠曾倍臣と佐伯部子麻呂の2人に兵30人を与え,古人大兄皇子を攻撃させた。古人大兄と子供は斬られ,その妃,妾は自害した。
 ある本には,11月,吉野大兄王が謀反し,事が露見したため誅された)

抄録

  • 古人皇子は,舒明天皇が蘇我法提郎女との間に儲けた皇子である。古人皇子は妾の子であったため皇位に野心はなかった
  • 629年,舒明天皇が即位した時,舒明天皇の姪にあたる宝皇女が立后した。この時,宝皇女が先夫の高向王との間に儲けた開別皇子(漢皇子)が連れ子となった。
  • 640年に舒明天皇崩御後,蘇我蝦夷大臣は古人皇子を即位させたかったが,天兄王の山背天皇の対抗馬としては若すぎたため,宝皇后(皇極天皇)を日弟王に擁立した。
  • 643年,蘇我入鹿は独断で山背天皇を襲撃し滅ぼした。その後,皇極天皇は天兄王となり,古人皇子は日弟王に擁立された。
  • 山背天皇襲撃後,蘇我蝦夷,入鹿は群臣の襲撃を怖れて警戒を強めた。一方,傲慢な振舞いに拍車がかかるようになった。
    645年6月12日,三韓の貢調の儀で,皇極天皇と古人天皇は三韓の使者を大極殿で引見した。この時,出席していた入鹿が開別皇子とその一味に襲撃され,暗殺された。
  • 開別皇子は入鹿暗殺後,蘇我蝦夷大臣も討伐し,叔父の軽皇子(孝徳天皇)を日弟王に擁立した。
    古人天皇は吉野に隠遁し,敵意がないことを表明した。
  • 645年9月3日,古人天皇は謀反を企てたという理由で開別皇子が送り込んだ兵に襲撃され,討たれた。

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