出生
有間皇子は命長元年(640年)に生まれました。これは『日本書紀』斉明紀4年(658年)11月の記事(割注)より逆算して割り出しています。
「方今,皇子,年始まりて十九なり」
(現在,皇子は年を数えると19になります)
父は軽皇子といい,母は阿倍内麻呂の娘・小足媛といいます。
軽皇子には,宝皇女という同腹の姉がいました。祖父は茅渟皇子といい,敏達天皇の第一皇子でありました押坂彦人皇子の子になります。
敏達天皇が鏡当5年(585年)に崩御された後,第一皇子の押坂彦人皇子が天兄王として即位しましたが,当時,絶大な権勢を誇っていた蘇我馬子大臣が敏達天皇の弟である池辺皇子(用明天皇)を日嗣(日弟王)として擁立したため,押坂彦人皇子は実権を奪われてしまいました。
その後,用明天皇の第二皇子の厩戸皇子(上宮天皇)が日弟王として即位しました。この間,押坂彦人皇子は傀儡のままでしたが,告貴4年(600年)に隋に遣使した際,隋の文帝より「倭国の兄弟統治は義理がないので改めた方がよい」と言われたため,上宮天皇はそれを理由に天兄王家を皇位から外してしまいました。
これが原因で長らく押坂彦人皇子の皇統は皇位から遠ざけられ,不遇を託っていました。しかし上宮天皇の治世は非常に安定しており,栄華を極めていました。
倭京5年(622年),上宮天皇が崩御され,皇太子の山背皇子が即位されました。姉の宝皇女が用明天皇の皇孫にあたる高向皇子に嫁いだのはちょうどその頃でした。
宝皇女は高向皇子との間に漢皇子を儲けました。有間皇子より15歳年上の従兄にあたります。
仁王4年(626年),長年権勢を奮ってきた蘇我馬子大臣が薨去し子の蝦夷が跡を継ぐと風向きが変わってきました。蝦夷大臣は山背皇子とは別に日嗣(日弟王)を擁立しようとしたのです。山背皇子は何度も蝦夷大臣に抗議しましたが,これは受け入れられず,仁王6年(629年),押坂彦人皇子の子,田村皇子(舒明天皇)が即位しました。
翌仁王7年(630年),舒明天皇は高向皇子のもとに嫁いでいた宝皇女を皇后に迎え入れました。この時,まだ幼かった漢皇子(開別皇子)も連れ子として舒明天皇のもとに迎え入れられました。
舒明天皇は宝皇后との間に二男一女を儲けました。葛城皇子,間人皇女,大海皇子です。
これで政権内の勢力図は一気に逆転し,今度は山背皇子とその一派が衰退し,押坂彦人皇子の皇統が躍進しました。
そもそも蝦夷大臣が舒明天皇を日弟王に擁立したのは,山背皇子の発言力が強かったからです。そのため衰退していた押坂彦人皇子の皇統に恩を売る形で今回の日嗣擁立を決めました。
日嗣擁立に一役買ったのは阿倍内麻呂です。阿倍内麻呂は早くから蝦夷大臣に協力していました。その功績もあり,娘の小足媛を舒明天皇の甥で,宝皇后の実弟にあたる軽皇子に嫁がせることに成功しました。
そして小足媛との間に有間皇子が生まれました。
乙巳の変
有間皇子が生まれた頃,父の軽皇子は脚を患い,朝廷に出仕できず屋敷に籠る日々を送っていました。(『藤原家伝』上)
舒明天皇が急病を患い,突如崩御され,代わって日弟王として即位したのは宝皇后(皇極天皇)でした。女帝の即位など聞いたことがなく,蝦夷大臣の権勢は強まるばかりでした。
軽皇子のもとに中臣御食の子,鎌足が詰めるようになったのもちょうどその頃でした。中臣氏は神祇を司る家柄でしたが,かつて仏法をめぐって蘇我馬子や上宮天皇と対立して以来,不遇を託っていました。そのため,舒明天皇を蝦夷大臣が擁立すると決めた際,中臣御食は阿倍内麻呂と同じぐらい強く支持してきました。しかし中臣御食の子,鎌足は少し毛色が変わっており,蝦夷大臣が権勢を強めていくことに不安を募らせていました。鎌足は朝廷に出仕せず,軽皇子のもとに伺候するようになりました。
皇極天皇は日弟王とはいえ,やはり女帝であるのが影響し,長年在位していた山背皇子の天兄王家に政権を返す動きが水面下で行われるようになりました。
そんな時でした。命長4年(643年),蝦夷大臣の子,入鹿が突如,山背皇子とその一族を急襲し滅ぼす事件が起きました。
皇極天皇が廃位される前に先手を打ったつもりなのでしょうが,これに大激怒したのが中臣鎌足でした。鎌足は入鹿誅殺を決意しましたが,軽皇子はともに謀るに足らないとみて見限り,旗頭に相応しい人物として目を付けたのが開別皇子でした。(『藤原家伝』上)
中臣鎌足は開別皇子と共謀し,命長6年(645年),蘇我入鹿を誅殺することに成功しました。蝦夷大臣は反撃しようと試みましたが,開別皇子と中臣鎌足は蝦夷大臣の弟の山田石川麻呂を味方に引き入れており,さらには阿倍内麻呂も開別皇子に降伏したため,反撃を諦めて自害しました。
その後,開別皇子は母の皇極天皇から譲位を打診されましたが,中臣鎌足が「兄がいるのにそれを立てずに即位してしまっては道に背くことになる」と諫められ,叔父の軽皇子を次の皇位に擁立し,開別皇子は皇太子の座に収まりました。
この時,有馬皇子はまだ5歳の子供でしたが,自分の父親が皇位を継ぐ栄誉を誇らしく思いました。
孝徳天皇の崩御
孝徳天皇の即位後,蘇我蝦夷大臣に仕えていた群臣は舒明天皇の子の古人皇子を擁立し敵対していましたが,開別皇子は古人皇子とその妻子を粛正し,この騒動に終止符を打ちました。
このように開別皇子は内乱の鎮圧に尽力してきたわけですが,政権内の恨みを強く買っており,常色3年(649年),阿倍内麻呂が亡くなると,開別皇子の義父にあたる蘇我山田石川麻呂を讒言で自害に追い込み,開別皇子の権勢を弱らせていきました。
その頃,朝鮮半島の情勢が慌ただしくなり,新羅が唐に臣従する事態が起きました。阿倍内麻呂の死後,左大臣を務めていた巨勢徳多は新羅討伐を主張しましたが,孝徳天皇は特に動かず,日和見を続けました。巨勢徳多を始めとする急進派は日和見の孝徳天皇に失望しました。
その頃,孝徳天皇は都を,旧来の貴族が蔓延る飛鳥から新都・難波に遷し,政権の再構築を試みましたが,白雉2年(653年),群臣は先の新羅討伐を見送った件も含めて孝徳天皇に対する不満が爆発し,舒明天皇の忘れ形見の葛城皇子を擁立し,難波から飛鳥に戻ることを奏上しました。しかし孝徳天皇が受け入れられなかったため,今度は葛城皇子,皇極上皇,間人皇后といった皇族全員を引き連れて飛鳥に戻ってしまいました。(『日本書紀』孝徳紀 白雉4年)
白雉3年(654年),孝徳天皇は失意のうちに崩御しました。その後,皇位は皇太子の開別皇子(天智天皇)が天兄王として即位しましたが,群臣は皇極上皇(斉明天皇)を日弟王として重祚させました。
有間皇子にはこの時,2つの選択肢がありました。天智天皇の下で仕えるか,それとも斉明天皇の下に出仕するか,です。
この時,有馬皇子は斉明天皇の下に出仕することを選択しました。心情的に従兄の下で仕えたくなかっただけなのかもしれません。
斉明天皇の下では,葛城皇子が立太子しました。孝徳天皇の実子でありながら,有間皇子の即位の芽はどこにもなかったのです。
有間皇子は本来ならば自分が座るべき皇太子の座に居る葛城皇子を憎みました。しかし群臣は誰も有間皇子の擁立に協力してくれませんでした。
憂悶のまま4年の月日が過ぎました。
事変勃発
蘇我山田石川麻呂には蘇我赤兄という弟がいました。蘇我山田石川麻呂には他に連子,日向,果安といった弟がおり,日向は開別皇子(天智天皇)を裏切りましたが,その他の兄弟は開別皇子に忠誠を誓っていました。
この状況下で蘇我赤兄は有間皇子に近づき,謀反を唆し,裏切りました。
以下,『日本書紀』斉明紀4年11月の記事の引用です。
『日本書紀』斉明紀4年11月
11月3日,飛鳥の留守官であった蘇我赤兄臣は有間皇子にこう語った。
「天皇の治世には3つの失政がある。倉庫をたくさん立てて民草の財産を搔き集めたことが一つ目。渠水(運河)を長く拵えて公費に損害を与えたことが二つ目。船に石を積込み,丘を築いたことが三つ目」
有間皇子は赤兄が自分に好意を抱いてくれるのを知って喜び,こう答えた。
「私は生まれて初めて兵を用いるべき時が来たのか」
5日,有間皇子は赤兄の家に向かい楼に登って謀略をめぐらしたが,脇息が勝手に折れたため,成功しないと悟り,互いに口止めを約束し,皇子は帰宅した。
この日の夜半,赤兄は物部朴井連鮪に造宮の労働者を率いさせて,市経の家にいた有間皇子を包囲した。一方で駅馬を走らせて天皇に奏上した。
9日,有間皇子と守君大石,坂合部連薬,塩屋連鯯魚を紀伊の温泉に送った。舎人の新田部米麻呂が随行した。
この時,皇太子(葛城皇子)は有間皇子にこう質問した。
「どうして謀反を企んだのだ?」
有間皇子はこう答えた。
「天(天兄王。天智天皇)と赤兄が知っている。私はまったく分からない」
11日,丹比小沢連国襲を派遣し,有間皇子を藤白坂で絞殺した。この日,塩屋連鯯魚,舎人の新田部米麻呂を藤白坂で斬った。
抄録
- 有間皇子は,軽皇子が阿倍内麻呂の娘の小足媛との間に儲けた皇子である。640年に生まれた。
- 645年,乙巳の変で権臣の蘇我蝦夷,入鹿親子が開別皇子によって討たれた。開別皇子は有間皇子の従兄にあたる。
乙巳の変後,天兄王の皇極天皇は退位し,日弟王の古人天皇は吉野に隠遁した。
開別皇子は叔父の軽皇子(孝徳天皇)を日弟王に擁立し,開別皇子は皇太子の座に収まった。 - 649年,左大臣の阿倍内麻呂が亡くなると,右大臣であった蘇我山田石川麻呂が冤罪により自害に追い込まれた。この2人は開別皇子の後見人であったため,開別皇子の権勢は陰りを見せた。
- 朝鮮半島では新羅が唐に臣従する事件が起きていた。左大臣の巨勢徳多は新羅討伐を主張したが,孝徳天皇は受け入れなかった。
- 孝徳天皇は都を飛鳥から難波に遷した。しかし群臣は反対し,舒明天皇と皇極上皇の息子である葛城皇子を擁立し,飛鳥に戻ってしまった。
- 654年,孝徳天皇は失意のうちに崩御した。次の天皇には皇太子の開別皇子(天智天皇)が即位したが,群臣は皇極上皇(斉明天皇)を日弟王として擁立し,重祚させ,息子の葛城皇子が立太子した。
有間皇子は本来ならば天智天皇のもとに留まるべきであったが,斉明天皇の下に入った。しかし孝徳天皇の子としての誇りがあった有間皇子は,本来自分が座るべき皇太子の座に葛城皇子がついていることに不満を抱いていた。 - 658年11月3日,有間皇子は蘇我赤兄の謀反の勧めに同意したが,すぐに翻意した。しかし蘇我赤兄は有間皇子謀反の報を斉明天皇に知らせ,有間皇子を捕縛した。
11月9日,有間皇子は皇太子(葛城皇子)に尋問された時,「天(天智天皇)と赤兄が知っている。私は知らない」と無実を主張したが,処刑された。
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