[考察]加羅の滅亡について

倭国の歴史(考察)

5世紀初頭の倭国,朝鮮半島南部の情勢

『日本書紀』によれば,498年,第24代・仁賢天皇は崩御し,皇太子の小泊瀬稚鷦鷯皇子(第25代・武烈天皇)が即位されました。本サイトでは,この時,雄略天皇の子,星川皇子が反乱を起こしたと考えています。(雄略天皇の子,星川皇子は誰に対して反乱を起こしたのか?
 星川皇子の反乱鎮圧後,小泊瀬稚鷦鷯皇子(第25代・武烈天皇)が即位しました。しかし即位当時,武烈天皇はまだ幼かったのではないかと推測しています。理由は,武烈天皇が生まれたのは,父親の仁賢天皇(憶計王)が482年に叔母の飯豊青皇女に庇護された後だと考えているからです。

 仁賢天皇は父・市辺押磐皇子が後継者争いの末に雄略天皇に謀殺されると,身の危険を回避するため身分を隠して庶民の間に隠れて暮らしました。暗殺に怯えて暮らしている時に村娘と恋仲になって子供を儲けるとは考え難いので,飯豊青皇女の下で庇護された後,つまり482年以後に小泊瀬稚鷦鷯皇子を儲けたのだろうというのが推測の根拠になります。
 482年以降に武烈天皇が生まれたとすると,仁賢天皇が崩御された時,武烈天皇はまだ若かったと思われます。当時,倭国は大王の権威が失墜しており,早急に王権の向上が必要な状況でした。
 そこで倭国の国政を担っている重鎮は,武烈天皇の後見人を探しました。最初,仲哀天皇の後裔にあたる倭彦王を迎え入れようとしましたが拒否され,次に応神天皇の後裔にあたる男大迹おおど王を迎え入れました。(継体天皇の即位について

 武烈天皇は子を儲けずに崩御されたため,男大迹王(第26代・継体天皇)はそのまま即位しました。当時,倭国は新羅,百済との関係が険悪化しており,特に慕韓(馬韓)を百済に接収されたのはかなりの痛手となっていました。倭国が庇護するべき任那と加羅が,倭国と敵対する新羅と百済に挟まれてしまったからです。
 しかし百済は倭国と敵対関係を続ける意思はなく,501年に武寧王が即位すると,武寧王は倭国との関係を改善し,倭国との再同盟を成功させました。(百済・東城王の死と武寧王の即位,倭国との再同盟について

 武寧王はその後,高句麗との戦争に注力し,旧都・漢城を回復しました。
 一方で,倭国は内政に注力し,懸案だった王権の危機的な状況からは脱することができました。特に517年に年号を建元したことは,その一連の活動の成果でした。
 内政が安定化すると,次は外政の取り組みへとシフトしていくことになります。
 慕韓失陥後,朝鮮半島で倭国傘下にある国は秦韓,任那,加羅となりました。この三国だけでは新羅や百済に対抗することはできません。そのためこの三国が新羅や百済に侵攻された場合,盟主の立場にある倭国が援軍を派遣する必要がありました。軍費の増大を考えた場合,そこまでこの三国に入れ込むべきか否かが,倭国にとって最大の懸案となりました。
 

 この時,倭国では2つの方策について検討が行われました。1つは従来通り,軍費増大を覚悟して秦韓,任那,加羅を庇護していく方策。もう1つは,秦韓,任那,加羅の庇護を百済に押し付けることでした。

『日本書紀』によれば,512年,倭国は任那4県を百済に割譲することを決めました。この任那4県は,秦韓の地であったと推測しています。(継体天皇が任那4県を百済に割譲した原因と結果について
 ここで問題となったのは,秦韓は古くは辰韓と呼ばれ,新羅と馴染みが深い国であったことです。そのためこの問題に新羅も加わり,新羅の侵攻を招いたのでした。
 この後,倭国は任那再興のため遠征軍を編成し,近江毛野を将軍として任那に派遣しました。しかし筑紫を始めとする九州北部で磐井による大規模な反乱が勃発し,磐井の乱を鎮圧後,晴れて任那に軍勢が辿り着いても近江毛野の失政により,今度は百済までもが敵対する事態となりました。

 このようにかつて後代であった任那を含む版図は,継体天皇の治世下で大いに削られてしまったというのが5世紀初頭の情勢でした。

安閑天皇の治世

 継体天皇の崩御後,勾皇子(第27代・安閑天皇)が即位しました。安閑天皇の即位年は善記改元の522年と推測しています。
 安閑天皇の即位後,百済・武寧王は南宋梁に遣使しました。以下,『三国史記』からの引用です。

(521年)冬十一月、梁に遣使し朝貢した。これより前に高句麗によって撃破され、毎年のように衰弱していったが、ついに上表することになったのは何度も高句麗を撃破したと言い続けたからである。始めて通好し、さらに強国となった。


 十二月、高祖は詔冊を王に下した。
「行都督・百済諸軍事・鎮東大将軍・百済王余隆は海外における梁の藩屏となり、その国土を守る。遠地にありながら職務に励み貢納する。真心を込めてここに来たること、朕は心から称えたい。古い慣例に従い、ここに栄職を授ける。使持節・都督・百済・諸軍事・寧東大将軍に任命する。」

『三国史記』百済本紀・武寧王二十一年十一月、十二月

 百済・武寧王は何度も高句麗軍を撃破した功績により,南朝・梁から使持節・都督百済諸軍事・寧東大将軍を授与されました。これはかつて倭王済(允恭天皇)や倭王武(雄略天皇)に授与されたのと同じ官職です。
 武寧王は継体天皇が存命中は倭国の従属国としての立場を形式的に取っていましたが,継体天皇の崩御後,野心を隠さなくなりました。
 その武寧王も523年に薨去しますが,跡を継いだ王太子の聖明王は,武寧王の死を狙って侵攻してきた高句麗軍の撃退に成功し、即位の年を無事に乗り切っていました。(『三国史記』百済本紀・聖王一年八月)
 同じ頃,新羅も百済の使者に同行する形で南朝梁に遣使していました。(『三国史記』新羅本紀・法興王八年)
 中国の歴史書に新羅の列伝が立てられるようになったのはこの時が初めてといいます。
 新羅や百済はそれぞれ独自の道を進むようになっていました。この流れを倭国は食い止めることができないまま安閑天皇は崩御されました。

2つの戦火

 安閑天皇の崩御後,弟の檜隈高田ひのくまのたかた皇子(第28代・宣化天皇)が526年に即位しました。年号は正和です。
 宣化天皇は即位すると,次のような詔勅を下しました。

 夏五月一日、次のように詔勅を下した。
「食は天下の本である。黄金を何万貫所持していても飢えを凌ぐことはできない。真珠が千箱あっても寒さを救うことはできない。
 筑紫国は近国だけでなく遠方の国も訪朝する場所であり、往来の関門たる場所である。そのため海外の国は風浪を見計らって来訪し、天候を予測し献上品を貢納する。応神天皇以来、朕の世に至るまで籾種を収蔵し、収穫した食糧を備蓄している。長いこと凶作の年に備え、上客を厚く饗応してきた。国家安泰の方策としてこれに勝るものはなかろう。
 そこで朕は阿蘇君【未詳】を派遣し、さらに河内国茨田郡の屯倉の穀物を運ばせた。蘇我大臣稲目宿禰は尾張連を派遣し、尾張国の屯倉の穀物を運ぶように。物部大連麁鹿火は新家(にいみ)連を派遣し、新家の屯倉の穀物を運ぶように。阿倍臣は伊賀臣を派遣し、伊賀国の屯倉の穀物を運ぶように。
 官家(みやけ)を那津の付近に修築するように。また筑紫、肥国、豊国の三国の屯倉は各所に点在しており、運輸に支障が出ている。屯倉の備蓄を必要とする事態が発生した場合、準備から始めていたのでは難しかろう。諸郡に命じて一部を那津の付近に倉を建てて集積し、非常事態に備え、今後とも民の命を大事に考えるように。
 早急に郡県に詔勅を下し、朕の心を知らしめるように」

『日本書紀』巻十八・宣化天皇元年五月一日

 宣化天皇は庶民の暮らしに目を向けた統治を志していました。この詔勅だけを読むと,名君であったように思えます。
 しかし宣化天皇の治世を危ぶませたのは,朝鮮半島で発生した2つの戦火でした。
 1つ目の戦火は,高句麗・安蔵王(文咨王の長子)による百済親征です。529年,高句麗は百済の北境に侵攻し,百済・聖明王は3万の軍勢で迎撃しましたが敗北を喫しました。(『三国史記』百済本紀・聖王七年十月)
 この時,百済は武寧王の時に奪還した漢城を失陥しました。
 2つ目の戦火は,新羅による加羅侵攻です。
 事の発端は継体天皇が崩御した翌年(522年)、伽耶(加羅)王・仇衡きゅうこうが新羅王女との婚姻を希望したことにあります。
 新羅・法興王は伽耶(加羅)王の希望を受け入れ,伊飡(序列第二位)の比助夫の妹を伽耶王の妃として送り込みました。(『三国史記』新羅本紀・法興王九年三月)
 ところが529年、新羅王女の従者が加羅の文化に従わなかったため、加羅の阿利斯等(ありしと)は激怒しこの従者を追い返してしまいました。
 このことに今度は新羅が激怒し,報復のため加羅に侵攻しました。
 このあたりの経緯について『日本書紀』は次のように記しています。

 加羅王は新羅王の王女を娶り、子を儲けた。新羅は最初、王女を送るとき、一緒に百人の従者をつけた。
 加羅王はこれを各県に分散して受け入れ、新羅の衣冠を着用した。阿利斯等(ありしと)は加羅から新羅の服装に変わったことに激昂し、使者を派遣してこの従者たちを送り返した。
 面目を失った新羅は王女を呼び戻そうとした。
「最初に汝が求婚してきたから予は結婚を許可したのだ。今、このような事態になった以上は王女を返してもらおう。」
 加羅の己富利知伽(こほりちか)【未詳】はこう回答した。
「夫婦として結婚させておいて別れさせることなどできまい。また子供もいるのだ。この子を見捨ててどこに行かせるつもりなのだ」
 このような経緯があり、新羅は刀伽(とか)古跛(こへ)布那牟羅(ふなむら)の三城を攻略し、また北の国境にあった五つの城を攻略した。

『日本書紀』巻十七・継体天皇二十三年三月

 この記事は『日本書紀』では継体天皇23年に掲載されていますが,実際は宣化天皇の在位中に発生した事件と考えています。
 新羅に侵攻された加羅は倭国に救援を要請しました。
 高句麗による百済侵攻と,新羅による加羅侵攻。この2つの戦火が宣化天皇の治世を危機に陥れました。

大伴狭手彦による任那再興戦

 加羅からの救援要請を受けた宣化天皇は大連の大伴金村の子,狭手彦を大将軍に任命し,任那救援に派遣しました。(『日本書紀』巻十八・宣化天皇二年十月一日)
『肥前国風土記』には,宣化天皇の治世下で大伴狭手彦が現地の娘・弟日姫子と結婚し、出征の日にこの女性に鏡を渡すと、この女性は鏡を持って泣きながら狭手彦を見送ろうと栗川を渡り、鏡の紐の緒が切れて川の中に沈んだという言い伝えがあります。(『肥前国風土記』松浦郡・鏡の渡)
 大伴狭手彦は松浦から出航し、任那に到着後、新羅の侵攻を受けていた任那を救援し、立て続けに高句麗との会戦に臨み、撃破しました。
 この時の様子について,『日本書紀』欽明紀に次のように記されています。

 八月、天皇は大将軍・大伴連狭手彦(さてひこ)に数万の兵を与え、高麗を討伐させた。
 狭手彦は百済の計を用いて、高麗を撃破した。その王は墻を乗り越えて逃亡した。狭手彦は勝ちに乗じて宮殿に入り、珍宝、貨賂(かろ)(宝物)、七織帳(おりもの、とばり)、鉄屋(鉄製の家屋)を獲得し、帰還した。【注一】

 七織帳を天皇に献上した。鎧二領、金飾の刀二口、銅製の鐘三口、五色の旌旗二竿、美女の媛(媛は名である)と侍女・吾田子(あたこ)を蘇我稲目宿禰大臣に送った。大臣は二女を妻とし、軽曲殿(かるのまがりどの)に住まわせた。【注二】

【注一】旧本に「鉄屋は高麗の西の高楼の上にあり、織帳は高麗王の寝所に張ってあった。」という。
【注二】鉄屋は長安寺にあるというが、この寺がどこにあるのか知らない。ある本には「十一年、大伴狭手彦は百済と共に高麗王・陽香を比津留都で追い払った」とある。

『日本書紀』巻十九・欽明天皇二十三年八月

『日本書紀』欽明紀には、高句麗王を相手に大勝を収めた記事と、高句麗・陽原王を撃退した割注の記事の二つが掲載されています。
 宣化天皇の在位中に大伴狭手彦が撃破した高句麗王は安蔵王です。安蔵王はこの戦い後、531年に弑殺されます。但し『三国史記』には安蔵王弑殺の記録がなく,『日本書紀』(継体紀二十四年十二月)に引用された『百済本記』の記事にのみあります。
 安蔵王の薨去後、弟の安原王が即位しました。この高句麗王は百済に一度も侵攻したことがない稀有な王でした。この消極的な態度のため、540年に百済の侵攻を招いたほどです。
 545年、安原王が薨去し、長子・陽原王が即位すると、高句麗は再び百済に侵攻するようになりました。『日本書紀』の割注に記されている「ある本」の「十一年」の記事は高句麗・陽原王の在位中の出来事です。
 この二つの記事は『日本書紀』欽明紀二十三年(561年)に挿入されていますが,実際は530年と545年の記事と考えています。しかも記事自体は530年の事績であり,545年の記録はある本の「十一年、大伴狭手彦は百済と共に高麗王・陽香を比津留都で追い払った」だけです。
 大伴狭手彦は宣化天皇の期待に応え,任那や高句麗との戦いで勝利を収め,当初の目的を達成することができました。

辛亥の変(531年)と加羅の滅亡

 宣化天皇は内政だけでなく,外政にも目覚ましい成果を上げており,特に大伴狭手彦の戦功は後世に残るほどの偉業となるはずでした。
 それに宣化天皇は橘仲皇后(仁賢天皇の皇女)との間に上殖葉(かみつうえは)皇子を儲けていました。上殖葉皇子は履中天皇(倭王讃)の皇孫にあたるため,血統としても問題がなく,誰もが宣化天皇,上殖葉皇子の順に皇位が継承されるものと思っていました。
 これを覆したのが,宣化天皇の弟,排開広国皇子によるクーデターでした。(531年に崩御されたのは継体天皇ではなく宣化天皇である点について
 排開広国皇子は宣化天皇と橘仲皇后、そして皇子たちを弑殺し、山田春日皇后(安閑天皇の皇后)に登極を打診しました。しかし山田春日皇后は登極を拒否したため,排開広国皇子(欽明天皇)はみずからが登極し,年号を正和から教到に改元しました。

 このクーデターは誰も望んでいたものではありませんでした。特に加羅は倭国を見限り,532年,新羅に従属を願い出ました。(『三国遺事』駕洛国記)
 新羅に降伏した加羅王は優遇されたといいます。

 法興王十九年、金官国王の金仇亥が、王妃および三王子(長男を奴宗、次男を武徳、末子を武力)とともに国の財物や宝物をもって来降した。
 法興王は彼らを礼式に沿って待遇し、上等の位を授け、本国をその食邑として与えた。
 末子の武力は角干(かっかん)(新羅・骨品制の第一級)まで昇進した。

『三国史記』新羅本紀・法興王十九年

 加羅が新羅に従属したことで,新羅は対馬の対岸にまで領土を拡大することになりました。
 こうして任那を巡る戦いは最終局面を迎えたのでした。

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