[考察]531年に崩御されたのは継体天皇ではなく宣化天皇である点について

『日本書紀』が記す継体天皇の崩御年(531年)は宣化天皇の崩御年である

『日本書紀』継体紀には,継体天皇の崩御年にまつわる謎の記述があります。

 継体二十五年(531年)の春二月、天皇の病気が重くなった。
 六日、天皇は磐余玉穂いわれのたまほ宮で崩御された。時に八十二歳。
 冬十二月五日、藍野あいの陵に葬った。【注一】

【注一】 ある本には「天皇は治世二十八年、甲寅の年(534年)に崩御した」とある。これを治世二十五年、辛亥の年(531年)崩御としたのは『百済本記』の次の文に依ったためである。
「辛亥の年(531年)の三月、兵を安羅にまで進め、乞乇こったく城を築城した。
 この月、高句麗の王・安が弑殺された。また聞くところによれば、日本の天皇、及び太子、皇子が崩御、薨去したという」
 辛亥の年は治世二十五年目に当たる。後に校勘する者はこのことを知っておくように

『日本書紀』巻17・継体天皇25年(531年) 2月6日、12月5日

 継体天皇の崩御年の謎とは,継体天皇の崩御後、皇太子・まがり皇子(安閑天皇)、その弟の檜前高田ひのくまたかた皇子(後の宣化天皇)が即位しているにも関わらず,「日本の天皇、及び太子、皇子が崩御、薨去した」と記されている点です。
 さらに不可解なのは『日本書紀』の編纂者は割注に「後に校勘する者はこのことを知っておくように」と記しており,編纂者自身がこれが謎であることを隠していない点です。
 この謎を解明するには,『日本書紀』に仕掛けられた「空白の9年」の謎を解く必要があります。

『日本書紀』継体紀の空白の9年の謎について

『日本書紀』継体紀には記事がほとんどない「空白の9年」と呼ばれる時期があります。それは在位11年(517年)から在位19年(525年)までの9年間です。

 この「空白の9年」には,わずかに3つの記事しかありません。
(1) 百済・武寧王の薨去
(2) 百済・聖明王の即位
(3) 弟国遷都

 このうち百済関連の記事を除くと、国内の記事はたった1つしかないのですが,そのようなことはあり得ないのです。何故ならば,継体天皇の功績の一つである「倭国建元」が「空白の9年」の時期に行われているからです。

『日本書紀』に元号が初めて登場するのは,645年の大化年号(『日本書紀』)です。それ以外は白雉年号(650年〜654年),朱鳥年号(686年)ですが,いずれも断続的に使用されています。
 この年号は現在でも使用されているため馴染みがあるものなので,年号は断続的に使用するものではないのは理解しやすいと思います。それは『続日本紀』大宝元年(701年)に「建元」という形で年号が登場して以来,現在に至るまで何年も途絶えるなどということはなかったことからも分かると思います。
『日本書紀』編纂者も年号が3つしか存在しないわけがないことは十分理解していました。それにこの時代の年号と思われるものが,平安時代の『二中歴』と呼ばれる書物に収録されている『年代歴』に残されています。そこには517年から700年までの193年間,31の年号が収録されています。
 最初の年号は「継体」といいます。日本の天皇は和諡号の他に,漢字数文字で表現する漢諡号がありますが,漢諡号は8世紀に活躍した淡海三船という貴族がつけたのが始まりでした。淡海三船がつけた継体天皇の漢諡号が,最初の年号である「継体」と同じなのは偶然ではありません。継体天皇が倭国で年号を建元したことを知っていたから,その年号を採って男大迹天皇の漢諡号としたのでした。
 年号は,中国では皇帝のみに許された特権でした。倭国も中国に倣い制定した建元は,517年に行われました。ちょうど空白の9年の時期にあたります。
 この重要な出来事を『日本書紀』が記さないわけがないのです。

 さてここからは謎解きになります。
『日本書紀』の編纂者は何らかの事情により「空白の9年」を挿入したのだとします。その歴史を復元しようとすれば,簡単なことです。「空白の9年」を削除すればよいのです。
 そこで今度はこの空白の9年間を削除してみます。

 空白の9年を削ると継体天皇の崩御年は521年となります。これは『年代歴』の継体5年にあたります。
 継体天皇には3人の皇子が続けて即位しています。安閑天皇,宣化天皇,欽明天皇です。
 欽明天皇は571年まで在位しています。そうすると,531年までに在位していた可能性のある天皇は,消去法で安閑天皇と宣化天皇となります。
 ここでもう一つ重要な謎解きの鍵があります。それは天皇の代替わりに改元が行われるということです。これも現在まで年号が続いている日本では当たり前の感覚です。
 521年に継体天皇が崩御されたとすると,531年までの間に2回の改元が行われています。
 1つ目は522年の善記改元です。
 2つ目は526年の正和改元です。
 この改元が安閑天皇と宣化天皇の代替わりに行われたものと考えると,531年に崩御した天皇は消去法で宣化天皇となります。

 宣化天皇の崩御年が531年とする根拠は『上宮聖徳法王帝説』にあります。

 志帰嶋天皇(欽明天皇)は天下を41年間,治められた。(辛卯年(571年)4月に崩じられた。陵墓は檜前坂合岡である)

『上宮聖徳法王帝説』

『上宮聖徳法王帝説』は,聖徳太子の伝記です。ここに欽明天皇が571年に崩御と記されています。これは『日本書紀』と同じです。
 問題は,欽明天皇在位年数が『日本書紀』だと32年ですが,『上宮聖徳法王帝説』は41年と異なっている点です。
『上宮聖徳法王帝説』の記述通り,欽明天皇の在位年数が41年だとすると,即位年は531年となります。

531年に起きた事件について(辛亥の変)

 宣化天皇が崩御された時,『日本書紀』宣化紀には何か異変があったことを窺わせる記述があります。

 宣化四年冬十月、宣化天皇が崩御された。皇子の欽明天皇(排開広庭皇子)は群臣にこう言った。
「予は年が若く知識も浅いので政治に習熟していない。山田皇后(安閑天皇の皇后)は政務に熟達していらっしゃる。どうか即位してください」
 山田皇后は恐怖を感じ、できないと謝った。
(わらわ)は恩寵を既に受けております。それは山や海にも及ばないほどです。国政は難しく、婦女子が預かるところではありません。今、皇子は老若を問わず恭敬な態度で接し、賢者には礼儀を重んじ、日が高くなるまで食事をとらず、士をお待ちになっております。それに幼い頃から誰よりも優れており、声望をほしいままにし、人となりは寛大で柔和であり、憐み深くあろうとされています。どうか諸臣の方々よ、早く登極させて天下を光り輝かせるように。」

『日本書紀』巻19・宣化天皇4年 (539年) 10月

 ここで着目してほしいのは,宣化天皇の崩御後、排開広庭皇子(後の欽明天皇)が宣化天皇の皇后ではなく、安閑天皇の皇后に即位を促している点です。皇后を即位させるのであれば,何故宣化天皇の皇后ではなく,先代の安閑天皇の皇后だったのでしょうか?
 次に着目してほしいのは,引用部分の「山田皇后は恐怖を感じ」と記されている点です。山田皇后は安閑天皇の皇后です。山田皇后はどういうわけか排開広庭皇子に恐怖を抱いていました。これはどうみても尋常ではない事態が起きていたようにしか思えません。
 そのことを示唆する記述が『日本書紀』にあります。

 冬十一月十七日、宣化天皇を大倭国身狭むさ桃花鳥坂上つきさかのうえ陵に葬った。皇后・橘皇女とその幼児を合葬した。【注一】

【注一】 皇后の崩年、記載がない。孺子は成人しないで死んだのだろうか?

『日本書紀』巻19・宣化天皇4年 (539年) 11月17日

 まず天皇の崩御に際して殯宮などの儀式がなく,崩御から葬儀までが異様に短い上に,皇后,幼児も合葬したというのが,あまりにも異常でした。
 このように,宣化天皇の崩御に何かしらの事件性があるのは感じ取れると思います。
 ここまでの解説で察していただけると思いますが,『日本書紀』継体紀に記された「日本の天皇、及び太子、皇子が崩御、薨去」の事件は,531年に勃発した「欽明天皇による宣化天皇弑殺というクーデター」を示していたのでした。

結論

  • 継体天皇の崩御年は531年ではなく,521年。
  • 安閑天皇は522年に即位し,525年に崩御された
  • 宣化天皇は526年に即位し,531年に崩御された。この時,「日本の天皇、及び太子、皇子が崩御、薨去」する事件が起きた。事件の首謀者は排開広庭皇子(後の欽明天皇)
  • 欽明天皇は531年に即位し,571年に崩御された。

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