1.『旧唐書』に記載された631年の遣唐使と,唐からの返礼
630年,倭国は犬上三田耜と薬師恵日を唐に遣使しました。(『日本書紀』舒明紀2年8月5日)
632年,唐はこの2人の使者を帰国させる際,高表仁を同行させました。(『日本書紀』舒明紀3年8月)
その後,高表仁は半年間,難波津に滞在した後,翌年(633年)1月に帰国しました。(『日本書紀』舒明紀4年1月26日)
高表仁の滞在中,『日本書紀』には特に目立った記事はありません。しかし『旧唐書』倭国伝には,高表仁が朝命を果たせずに帰還した旨が記述されています。
『旧唐書』巻199上 東夷・倭国伝
貞観五年,使を遣わし方物を献ず。太宗,その道の遠きを矜れみ,所司に勅して歳貢せしむるなし。
また新州刺史の高表仁を持節として遣わし,之を往撫す。表仁,綏遠の才なく,王子と礼を争い,朝命を宣べずして還る。
(現代語訳)
貞観5年(631年),倭国は使者を派遣し特産品を献上した。太宗は,唐までの道程が長いのを気にかけて,毎年の貢納は不要であると役人に勅命を下した。
また新州(現・中国広東省雲浮市)刺史の高表仁を使者として倭国に派遣し,慰撫させようとした。しかし表仁は遠方の地を統治する才能がなく,王子と礼を争ったため,朝命を果たせないまま帰還した。
幼いころに青字の部分を最初に読んだ時,今でも忘れませんが,率直な感想として「唐の使者は自分が一番になろうとして倭国の皇子と礼を争ったのだとすれば,なんと傲慢なのだろう」と思いました。
しかし倭国の実態を理解すると,決して高表仁が傲慢だから朝命を果たせなかったわけではなく,山背大兄皇子とその一派の妨害により朝命を果たせなかったことが分かりました。
ここではその背景について解説します。
2.高表仁が朝命を果たせなかった理由
倭国は長らく,「天を兄とし,日を弟とする。日が出れば天は政務を停止する」という兄弟統治を敷いていました。兄弟で統治することは,例えば古代エジプトのファラオのような例があるので珍しくはないのですが,問題は「日が出れば天は政務を停止」の部分です。これは,兄が傀儡となることを意味しており,どう考えても兄は弟を憎むはずであり,内訌の火種を抱えた状態にあったわけです。
さて,631年,犬上三田耜と薬師恵日が唐に派遣されたのは,舒明天皇の即位を報告することが目的の一つにあったと思われます。しかし舒明天皇は,もともと天兄王として在位していた山背大兄皇子に代わって日弟王として即位しました。当然ながら,実権を無効化された山背大兄皇子は面白くありません。
このような状況下で唐の使者として高表仁が来訪しました。さて,高表仁は天兄王と日弟王のどちらに謁見すればよいと思いますか?
普通に考えれば,実権を握っている日弟王の舒明天皇です。中国では,皇帝でありながら部下に実権を握られて傀儡にされた例が数多くあります。つまり高表仁にとって,倭国の状況は見慣れた光景でした。
高表仁はおそらく舒明天皇に謁見を願い出たものと推測します。しかしそれを山背大兄皇子が許すはずがありません。あらゆる妨害工作を行ったものと思われます。
その結果,高表仁は朝命を果たせず,歴史書には「綏遠の才なし(遠方の地を統治する才能なし)」とまで記されてしまったわけです。
これは高表仁にとって不名誉な評価でしたが,倭国にとっても対外的に不利益を蒙りました。
1つは,国内が不安定な状況であることを唐に知られてしまったことです。上宮天皇の時代,兄弟統治は廃止されていました。しかしそれを蘇我蝦夷が復活してしまったため,倭国は再び内訌の火種を抱え,それが起爆寸前となっていました。この状況を唐に知られたということは,唐に足元を見られることになります。
2つ目は,唐との外交関係構築に失敗したことでした。その失敗は山背大兄皇子とその一派の妨害によるものですが,もとはこの火種を生み出した蘇我蝦夷に責任があります。
蘇我蝦夷は,外交工作が山背大兄皇子とその一派の妨害によってうまくいかないことを改めて認識したことでしょう。この火種を取り除くには,山背大兄皇子とその一派を滅ぼすしかありません。
この出来事もまた,643年の山背大兄皇子とその一族が滅亡する遠因となったと考えます。
3.結論
- 630年,倭国は唐に遣使し,632年,唐は返礼として高表仁を倭国に派遣した。しかし高表仁は天兄王・山背大兄皇子とその一派の妨害に遭い,舒明天皇に謁見できないまま帰国の途についた。
- 山背大兄皇子とその一派の存在が倭国の外交関係に支障を来すことを改めて認識させられた出来事であり,643年の山背大兄皇子とその一族の滅亡の遠因となった。
リンク先
コメント