[考察]643年,山背大兄王の薨去後に即位した天皇は誰か?

643年,山背大兄王の一族滅亡後に即位した天皇は誰か?

『上宮聖徳法王帝説』に以下の欠字があります。

上宮聖徳法王帝説
(現代語訳)

 飛鳥天皇(皇極天皇)の御代,癸卯年(643年)十月十四日,蘇我豊浦毛人大臣の児・入鹿□□林太郎が,伊加留加宮におわす山代大兄およびその兄弟ら合わせて十五王子を滅ぼした。
 
□□□天皇の御代,乙巳年(645年)六月十一日,近江天皇,生年二十一歳が林太郎□□を殺害し,翌日にはその父・豊浦大臣とその子孫を全員滅ぼした

 緑色の字の「飛鳥天皇」は,飛鳥板葺宮など,飛鳥を都とした皇極天皇を指します。この時代,天皇の御名は在所となった宮殿の場所を冠して呼んでいました。
 皇極天皇は第34代・舒明天皇の皇后であり,『日本書紀』では641年に舒明天皇が崩御された後,他の皇子をさしおいて即位しました。
 643年,皇極天皇の在位中に臣下の蘇我入鹿が聖徳太子の子・山背大兄王とその一族を滅ぼす事件が起きました。
 その2年後の645年,蘇我入鹿は皇極天皇の子・中大兄皇子に殺害されます。この事件の首謀者は橙色の字の「近江天皇」です。この天皇は近江京を在所とした天智天皇を指します。
 問題は「□□□天皇」の部分です。何故,欠字になっていると思いますか?
 それは,643年,聖徳太子の子・山背大兄王を蘇我入鹿が滅ぼしたことにより,皇極天皇以外の別の天皇が即位したからです。
 結論から言うと,643年に即位したのは古人大兄皇子です。古人大兄皇子は舒明天皇と蘇我法提郎女(蘇我馬子の娘)との間に生まれた皇子です。蘇我法提郎女は蘇我入鹿の叔母にあたるため,古人大兄皇子は蘇我入鹿の従弟になります。
 しかしその関係でいえば,蘇我入鹿は山背大兄王とも従兄弟の間柄でした。同じ従兄弟の間柄にありながら,山背大兄王は滅ぼして古人大兄皇子は即位させた理由について解説していきます。

山背大兄王が滅ぼされた理由

 山背大兄王の父,聖徳太子は第31代・用明天皇の皇子です。母は穴穂部間人皇女といい,第29代・欽明天皇の皇女であり,両親とも優れた血筋を引いた皇子でした。
 聖徳太子は厩戸皇子ともいい,蘇我馬子とともに仏教を導入しようとしていました。しかし仏教反対派の物部守屋と争うことになり,587年,用明天皇の崩御後,蘇我馬子とともに武力で物部守屋を滅ぼしました。
『日本書紀』によれば,その後,用明天皇の弟である崇峻天皇が即位しますが,592年に蘇我馬子が弑逆し,妹の推古天皇が即位したといいます。
 しかし隋の歴史書『隋書』には女帝のことなど一言も触れていません。東アジアでは例を見ない女帝に触れないのは考え難いことです。
 推古天皇に代わって即位していたのは聖徳太子であったと考えています。その点については以下のサイトで解説しています。

   [徹底解説]即位していた聖徳太子

 上宮天皇(聖徳太子)が622年に崩御された後,皇太子(東宮)であった山背大兄皇子が即位したと考えています。山背大兄皇子は,群臣筆頭の蘇我馬子大臣にとって孫にあたります。蘇我馬子は山背大兄皇子を引き続き補佐しますが,626年,蘇我馬子大臣が薨去すると,息子の蘇我蝦夷が突如,「何れの王を日嗣とするべきか」と言い出します。(『日本書紀』舒明紀即位前 9月)
 この話は推古天皇崩御の628年としており,推古天皇の後継者を決める話とされていますが,筆者はここでの「日嗣」は日弟王と考えています。
 理由は,既に山背大兄皇子が即位しているからです。その状況下で立てる「日嗣」とは,押坂彦人大兄皇子以来,途絶えていた日弟王の擁立以外にありません。
 蘇我蝦夷は,押坂彦人皇子の子,田村皇子(舒明天皇)を日嗣に擁立します。当然ながら山背大兄皇子は抗議します。日弟王が擁立されるということは,山背大兄皇子は政務を停止しなければならないからです。
 これは倭国を二分する内訌を引き起こし,群臣も田村皇子と山背大兄皇子の両派に分かれて対立します。
 この時,蘇我馬子の弟の境部摩理勢は,かつて上宮天皇に重用されていたこともあり,蘇我蝦夷に反発して山背大兄皇子を支持します。境部摩理勢はただの反発だけでなく,山背大兄皇子の弟・泊瀬皇子のもとに寄宿し,蘇我蝦夷に徹底抗戦の構えを見せます。(『日本書紀』舒明紀即位前 9月)
 しかし運悪く泊瀬皇子が急死してしまい,庇護を失った境部摩理勢は蘇我蝦夷の軍勢に襲撃され,殺害されてしまいます。(『日本書紀』舒明紀即位前 9月)
 山背大兄皇子を支持していた群臣は境部摩理勢の最期を見て誰も逆らえなくなり,629年,日弟王として舒明天皇は即位します。舒明天皇の和諡号は「息長足広額天皇」といい,日弟王として「日」の字を冠しています。

 兄弟統治の復活により,天兄王(山背大兄皇子)と日弟王(舒明天皇)の皇統が両立することになりました。
 641年,舒明天皇は崩御します。(『日本書紀』舒明紀13年)
 但し舒明天皇の崩御年は640年と筆者は考えていますが,ここでは話を641年として進めます。
 舒明天皇の崩御後,本来ならば古人大兄皇子が即位するのが自然な流れでしたが,宝皇后(皇極天皇)が即位しています。
 皇極天皇の即位は『日本書紀』だけでなく,『上宮聖徳法王帝説』にも記載があるので,即位は間違いないのでしょう。
 古人大兄皇子が即位できなかったの理由は,山背大兄皇子と対峙するには若すぎたからだと思います。
 しかし蘇我蝦夷が即位させたかったのは,皇極天皇よりも蘇我氏の血を引く甥の古人大兄皇子でした。ただ,当時皇位は終身制で譲位という概念はなかったため,古人大兄皇子を即位させたいのであれば,皇極天皇の崩御まで待つしかありませんでした。

 それでも強引に古人大兄皇子を即位させようとするのであれば,天兄王家を滅ぼし,皇極天皇を天兄王とし,古人大兄皇子を日弟王に擁立するしか手はありません。
 蘇我蝦夷はこの強硬策には反対の立場でしたが,息子の蘇我入鹿はこれを強行しました。
 それが643年の事件でした。山背大兄皇子を族滅させたのは蘇我入鹿の独断であり,この事態を蘇我蝦夷は望んでいませんでした。この時の蘇我蝦夷の心情を『日本書紀』は次のように記しています。

ああ,入鹿,極めて甚だ愚癡ぐちなり。もっぱら暴悪を行い,なんじの身命は亦あやうからずや」(『日本書紀』皇極紀3年11月)

(現代語訳)「ああ,入鹿め,極めて愚かなことをした。暴悪な行いばかりしているようでは,そなたの命が無事であるわけがない」

 山背大兄皇子とその一族を族滅させた後,当初の計画通り,古人大兄皇子が日弟王として即位しました。それが『上宮聖徳法王帝説』の欠字(□□□天皇)の部分になります。

結論

  • 622年,上宮天皇(聖徳太子)崩御後,息子の山背大兄皇子が即位した。
  • 626年,蘇我馬子大臣が薨去後,蘇我蝦夷はかつての天兄王であった押坂彦人皇子の子,田村皇子を日弟王として擁立することを計画した。これは山背大兄皇子の政務を停止することになるため,山背大兄皇子は猛反対したが,結局は押し切られ,田村皇子(舒明天皇)は日弟王として即位した。
  • 舒明天皇の崩御後,宝皇后(皇極天皇)が即位した。しかし蘇我蝦夷の本心は甥の古人大兄皇子を即位させたかった。
  • 古人大兄皇子を即位させるには,天兄王家を滅ぼす必要があった。そのため643年,蘇我入鹿は山背大兄皇子とその一族をすべて滅ぼした。
  • 山背大兄皇子とその一族の族滅後,古人大兄皇子は日弟王として即位した。

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