425年:新羅王子・未斯欣の倭国逃亡

倭国の歴史(編年体)

新羅王子・未斯欣について

 新羅王子・未斯欣(『三国遺事』では美海)は,奈勿尼師今(『三国遺事』では那蜜王)の在位36年目(390年)に倭国の使者が来訪し「倭王に誠意を示すため王子を1人,遣わしてほしい」と言われ,によわい10歳の三男未斯欣を倭国に送ったと言います。(『三国遺事』巻1,奈勿王・金堤上)
 390年は『広開土王碑』によれば,倭軍が新羅と百済を従属させた年に当たります。そのため『三国遺事』の記述通りだとすれば,未斯欣は倭国への従属の証として人質に出されたことが推測できます。
 一方で『三国史記』は,奈勿王の薨去後,高句麗の後ろ盾で即位した実聖尼師今が402年に未斯欣を倭国に送ったとあります。(『三国史記』実聖尼師今元年)
 しかし人質はその国と友好関係を結ぶなどの目的があるはずなのに,新羅はその後も倭国と戦争を続けているため,未斯欣が人質に出された年については『三国史記』よりも『三国遺事』の方が信憑性が高いと考えています。
 その後,未斯欣は倭国から脱走します。『三国史記』によれば418年,つまり実聖尼師今の暗殺後になり,『三国遺事』によれば425年(訥祇麻立干9年)とされています。
 その後,未斯欣は433年に亡くなりました。『三国遺事』の記述に従えば生年は380年となるため,53歳で亡くなったことが分かります。

未斯欣の倭国脱走の背景について

 さて,『三国史記』の記述通り,418年に未斯欣が倭国から脱走したとすると,大きな問題があります。それはこの時期,新羅は実聖尼師今を殺害したことで後ろ盾であった高句麗と険悪な関係にあったことです。
 新たに新羅王として即位した訥祇麻立干は,高句麗と倭国の大国を相手に戦争をすることなど考えてもいませんでした。どちらかと言えば,倭国の支援を期待して高句麗と戦争する方向で考えていたはずです。
 そう考えると,418年に未斯欣が倭国から脱走してしまうのは,はっきり言えば,迷惑以外の何物でもありませんでした。
 それよりも新羅は424年に高句麗と和解しているため,倭国の援軍が必要なくなった『三国遺事』の425年説の方が,未斯欣が倭国から脱走した年として信憑性が高いと考えています。
 新羅が怨敵であった高句麗との和解を実現した背景については「[考察]倭の五王の1人,倭王讃は何故2回目で遣使を取りやめたのか?」で解説していますが,簡単に言えば,倭王済(履中天皇)が新羅の従属を南宋に公認してもらおうとしていたことに新羅が反発したためです。

『三国遺事』による未斯欣(美海)の逸話について

 さて,その未斯欣の倭国脱走ですが,『三国遺事』には次のような逸話が残されています。

 新羅に堤上とまらという家臣がいました。堤上は苦労の末,高句麗から卜好(『三国遺事』では宝海)王子を奪還し,新羅に連れて帰りました。訥祇麻立干は弟の姿を見て「もう一人の弟とも会いたい」と呟くと,堤上はすぐに倭国に向けて出航しました。
 倭国に着いた堤上は,倭王に「わたしは冤罪により国を追われました」と嘘の報告をして,倭国に保護されました。
 たまたま霧が深い日があり,堤上は美海を掴まえて「今こそ逃げる時です」と言いました。
 美海は堤上と一緒に逃げようと思いましたが,倭国を訪れていた康仇麗という人物に美海を託し,堤上自身は足止めのために残りました。
 やがて美海が逃亡したことが倭王に知られ,堤上は倭王に「どうして逃がしたのか?」と尋問されました。
 堤上は「わたしは鶏林(新羅の別名)の臣下であり,倭王の臣下ではない。わが君の願いを欠耐えたかっただけだ」と答えると,倭王は次のように条件を持ち掛けました。
「それならば,わたしの臣下になれ。そうでなければ殺す」
 しかし堤上は頑なに拒み続けたため,ついには処刑されました。

『三国遺事』巻1 奈勿王 金堤上より(抄訳)

 堤上はこうして処刑されましたが,未斯欣王子は無事に新羅に帰国し,433年に53歳で大往生を遂げました。

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