[考察]任那滅亡の遠因について

倭国の歴史(考察)

辛亥の変(531年)について

 正和6年(531年),継体天皇の子,排開広国皇子は宣化天皇を弑殺しました。この暗殺には,排開広国皇子が若いころから重用してきた秦大津父(はたのおおつち)が関与していると思われます。理由は排開広国皇子(欽明天皇)の即位後,秦大津父(はたのおおつち)が大蔵省に任命されているからです。(『日本書紀』巻十九・欽明天皇即位前)
 大蔵省は星川皇子の反乱の際、母の稚媛が真っ先に押さえることを勧めていたように,朝廷内における重要な役職でした。そのような重役を渡来系の氏族である秦氏に授けているのは,秦大津父がこのクーデターの最大の功労者であったからだと推測するのは,あながち間違えていないと思います。
 一方で,宣化天皇の下で忠勤に励んでいた大連の大伴金村は政治の中枢から追いやられました。この時の様子を『日本書紀』は次のように記しています。

 九月五日、難波祝津(はふりつ)宮に行幸。大伴大連金村、許勢臣稲持(いなもち)、物部大連尾輿(おこし)らが随行した。
  天皇は群臣にこう仰せになった。
「どれほどの兵力があれば新羅を討てるだろうか」
  物部大連尾輿らは次のように奏上した。
「わずかばかりの軍勢では征討できないでしょう。かつて継体天皇六年(512年)に百済が任那の上哆唎、下哆唎、娑陀、牟婁の四県を要求してきたことがあります。この時、大伴大連金村が要求を受けてしまったため新羅は積年の恨みをわが国に抱いております。軽々しく討つべきではありません」
  このことがあり、大伴大連金村は住吉の家で病と称して参内しなくなった。そこで天皇は青海夫人の勾子(まがりこ)を派遣し諮問すると、大連は恐れて次のように陳謝した。
「それがしの病は私ごとではございませぬ。今、群臣らはそれがしが任那を滅ぼしたかのように言っております。それゆえに参内を控えております」
  そこで使いの者に鞍馬(かざりうま)を贈り、敬意を表した。青海夫人はありのままを奏上すると、次の詔勅を下した。
「長年忠節を尽くしてくれたのだから、衆人の口に憂えずともよい」
  罪を不問とし、寵愛はますます深まった。

『日本書紀』巻十九・欽明天皇元年九月五日

 大伴金村は宣化天皇の治世の下,息子の狭手彦を任那に派遣し,任那の安定化や百済に侵攻してきた高句麗・安蔵王の撃退に尽力しました。しかし欽明天皇に代替わり直後,同じ大連の物部尾輿に任那4県の割譲を詰問されました。
 そもそも任那4県の割譲は,継体天皇の施策でもありました。当然ながら,大伴金村だけの責任でもありませんでしたが,欽明天皇は任那4県の割譲については不問に付すと言いながらも,大伴金村をその後登用することはありませんでした。
 大伴金村に代わって台頭したのは蘇我氏でした。蘇我稲目の娘・堅塩(きたし)媛は欽明天皇の妃となり、多くの皇子・皇女を儲けました。その中でも用明天皇、崇峻天皇は皇位につき,用明天皇の子,上宮天皇(聖徳太子)の代で倭国は最盛期を迎え,外祖父の蘇我氏もともに繁栄を謳歌しました。
 こうして世代交代が行われ,新たな時代の幕開けとなりました。

加羅滅亡後の施策について

 教到2年(532年)、伽耶国が新羅に降伏し、新羅の版図が対馬の対岸まで伸びてきました。(加羅の滅亡について
 このような事態は倭国の有史以来,初めての出来事であり,倭国は任那各国の重鎮と百済・聖明王を交えて対応策を協議しました。
 この内容について『日本書紀』は次のように記しています。

 夏四月、安羅の次旱岐(しかんき)夷呑奚(いとんけい)大不孫(だいふそん)久取柔利(くすぬり)、加羅の上首位・古殿奚(こでんけい)卒麻(そちま)の旱岐、散半奚(さんはんげ)の旱岐の子、多羅の下旱岐・夷他(いた)斯二岐(しにき)の旱岐の子、子他の旱岐らが任那日本府の吉備臣【注一】とともに百済に向かい、ともに欽明天皇の詔書を拝聴した。
  百済・聖明王は任那の旱岐らにこう言った。
「日本の天皇の詔勅には、任那を復興するようにと記されている。ところでどのような策で任那を復興するべきだろうか。各自、忠節を尽くして天皇の御心を安んじられるように」
  任那の旱岐らがこう答えた。
「かつて何度も新羅と協議をしましたが、特に回答はありませんでした。どのように相談し新羅に何を申し入れても回答はないでしょう。今こそ天皇のもとに使者を派遣し、奏上するべきです。そもそも任那復興は天皇の本願なのですから、謹んでご教授いただいたらよいかと存じます。誰も何も言えますまい。それよりも任那の国境は新羅と接しており、卓淳(とくじゅん)らのような災禍が訪れるのではないかと危惧します」【注二】

  聖明王は次のように言った。
「昔、先祖の速古王、貴首王の世に安羅、加羅、卓淳の旱岐らが初めて使者を派遣し、親交を結び、子弟のように互いに繁栄していくことを願った。ところが今日、新羅に欺かれ、天皇の逆鱗を買い、任那が憤慨するのは寡人の過ちである。このことを深く後悔し、下部の中佐平・麻鹵、城方の甲背(こうはい)昧奴(まな)らを空に派遣し、任那日本府で会合を開き、互いに盟約をかわした。それ以後、任那再建のために互いに交流し、朝に夕に忘れたことがない。今、天皇の詔勅によれば速やかに任那を再建するようにとある。そこでそなたらと任那国を樹立するために画策したい。また任那の国境に新羅を呼び寄せて、任那再建を聞き入れるのか入れないのかを問いただそうではないか。その傍ら、使者を天皇のもとに派遣し、謹んで今後の策について教えを賜ろう。仮に使者が復命しないうちに新羅が隙をついて任那に侵攻したら予が救援に赴こう。心配には及ばぬ。しかし守備については警戒を怠らぬように。そなたらは卓淳らの災禍を恐れるというが、新羅は強さだけで卓淳を滅ぼしたわけではない。そもそも㖨己呑は加羅と新羅に挟まれており、連年敗北を重ね、任那も救援できずにいた。だから滅びた。南加羅は小国なので急に備えようと思ってもうまくいかず、他国を頼ろうともしなかった。だから滅びた。さらに卓淳は上の者と下の者で仲違いしており、国君自身が新羅に内応してしまった。だから滅びた。この三つの国はそれぞれ滅びるだけの理由があったのだ。昔、新羅は高麗に援軍を要請し任那と百済を攻撃したが、勝てなかった。新羅が単独でどうして任那を滅ぼすことができよう。今、予がそなたらと協力して天皇のために働けば任那再興は叶えられよう」

【注一】 名字を欠く。
【注二】 「卓淳ら」というのは㖨己呑、加羅を指す卓淳らのような災禍というのは、敗亡の災禍を指しているのだろう。

『日本書紀』巻十九・欽明天皇二年四月

 安羅(韓国慶尚南道咸安郡)は広開土王碑にも登場する国であり、かつて倭軍が新羅から撤退した際、救援に駆けつけた国です。この他に加羅(韓国慶尚北道高霊郡)、卒麻(韓国慶尚南道金海市)、散半奚(さんはんげ)(韓国慶尚南道陜川郡草渓面)、多羅(韓国慶尚南道陜川郡)、斯二岐(しにき)(韓国慶尚南道宜寧郡)、子他(韓国慶尚南道居昌郡か)の重鎮が任那日本府に詰めていた吉備臣とともに百済・聖明王と今後について協議したと『日本書紀』は記しています。


『日本書紀』はこの記事を541年としていますが,その場合,加羅(金官伽耶)の532年滅亡から9年も経過していることになり,あまりにも悠長な対策協議となります。しかしこの記事が欽明天皇の即位2年目(教倒2年(532年))であるとすると,この対策協議は,加羅が新羅に降伏した直後に開催され,百済・聖明王も参加していることから分かるように,百済にとっても由々しき事態でありました。
 聖明王はこの時,卓淳の例をあげて任那各国が危殆に瀕していると訴えました。
 卓淳は,韓国大邱広域市にあった国です。卓淳については『日本書紀』神功紀に次のような記事があります。

(神功皇后)四十九年春三月、荒田別、鹿我別を将軍に任命し、久氐(くてい)らと共に練兵し、卓淳国に向かい、新羅を襲撃しようとした。この時、ある人が言った。
「兵力が少ないと新羅を破れませぬ。どうか沙白と蓋盧の二人を送って増援を要請してください」
 そこで木羅斤資(ぼくらきんし)沙沙奴跪(ささどき)【注一】に精兵を率いさせて沙白と蓋盧と一緒に卓淳に集結し、新羅を撃破した。これにより比自㶱(ひしほ)、南加羅、㖨国(とくのくに)、安羅、多羅、卓淳、加羅の七国は平定された。

【注一】 この二人の姓は不詳。ただし木羅斤資は百済の将である。

『日本書紀』巻九・神功皇后四十九年三月

 神功皇后については別の機会に解説しますが,新羅国都・月城に最も近い卓淳は,150年ほど前には新羅討伐の軍勢の集結場所となり,それ以降は任那諸国の防壁の役割を果たしていました。その卓淳の滅亡により,聖明王は任那も滅亡の危機に瀕していると訴えたのです。
 これだけを聞けば,聖明王の訴えも理にかなっているように思えます。しかし聖明王の狙いは別にありました。

百済・聖明王の欺瞞

 百済・聖明王は任那の滅亡を回避するため,欽明天皇に「任那を百済に従属させる」ことを進言しました。
 百済・聖明王がそのことを進言した記事はありませんが,それを示唆する記事が『日本書紀』にあります。

 冬十一月八日、津守連を派遣し、百済に詔勅を下した。
任那の下韓に駐在している百済の郡令、城主を引き上げさせて日本府に帰属させる。
 またその津守連に持たせた詔書にはこう記されていた。
汝は何度も上表し、任那を再建すると言っておきながら十余年になる。このように上表しておきながら未だに達成できていない。
 任那は例えれば、そなたの国の棟梁である。棟梁が使い物にならなければ家屋は建てられまい。
 朕はそれが心配である。早急に再建せよ。もしも早期に任那を再建できたら、河内直ら【注一】は引き上げるだろう。それ以上は何も言うまい。」
 この日、聖明王は詔勅を聞き終わり、三人の佐平、内頭及び諸臣に一人ずつ質問した。
「どうしたらよかろうか?」
 三人の佐平はこう答えた。
「下韓にいるわが方の郡令と城主を引き上げさせるわけにはいきません。任那再建を早急に果たしましょう。」

【注一】 河内直は前述。

『日本書紀』巻十九・欽明天皇四年十一月八日

 引用した『日本書紀』の記事の「任那の下韓に駐在している百済の郡令、城主を引き上げさせて日本府に帰属させる。」の部分は,任那が百済に従属していることを示唆しています。
 さらに次の部分「汝は何度も上表し、任那を再建すると言っておきながら十余年になる。」は,532年に行われた対策協議から10年以上経過していることを指しています。『日本書紀』はこの記事を欽明天皇の在位4年目に掲載していますが,「十余年」の部分で明らかに矛盾します。
 しかし欽明天皇の即位年が辛亥の年(531年)だとすれば,特に矛盾はありません。
 532年の対策協議後,欽明天皇は百済・聖明王の要求を受託し,任那を百済に従属させたのです。この時の聖明王の言い分は「任那を再興させるので,一時的に百済に従属させてもらえないか」というものだったと思われます。
 しかし10年経過しても任那は復興されなかったので,痺れを切らした欽明天皇は任那を百済から取り上げようとしました。
 任那を百済に従属させること自体,常識では考え難いのですが,朝鮮半島南部の国を百済に従属させるのは,武寧王の時から行われてきたことでした。継体天皇の治世では,任那4県を百済に従属させたことにより伴跛国の乱や筑紫国造磐井の乱など,大規模な反乱が勃発しました。
 大伴金村はその罪を咎められて引退を余儀なくされましたが,それに懲りず,今度は聖明王に同様のことを持ち掛けられ,百済に任那を従属させるという策を採っていたのでした。
 これが任那滅亡の遠因となりました。
 

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