[考察]日本国と倭国について

高安城の修理と廃城に関する考察

『続日本紀』文武天皇2年(698年)8月20日の記事に「高安城の修理」の旨が記載されています。
これは翌年(文武天皇3年9月15日)も「高安城の修理」は続けられており,さらに同年(699)9月20日の記事には,京畿の官人に対して武具の用意を指示しています。
ところが701年,大宝建元後の文武天皇5年(701年),高安城は廃城とされました。
 普通に考えれば,ある目的を達成したため,高安城は不要になり廃城となったということになります。


 高安城の目的は,当時,都であった藤原京を防衛することにあったのは容易に推測できますが,廃城になった原因はそれだと説明がつきません。
 高安城は,実は大阪平野を一望できる場所にあり,藤原京を防衛する目的以上に,大阪湾から侵攻してくる敵を警戒してのものだったと考えています。その脅威が700年には取り除かれたので,大宝元年(701年)に廃城となったのだと推測しています。
 700年に何があったのかと言えば,『二中歴』収録の逸年号が終わった年でもあります。
『二中歴』収録の逸年号では,大化5年が700年に当たります。その翌年(701年),大化年号が建元されています。大化年号を使用していた国が滅び,それにより外敵の脅威が去ったため,高安城が廃城となった,というのがこの時代に起きていたことです。
 この時,滅びた国は「倭国」です。そして生き残った国は「日本国」です。
 全て状況証拠でしかありませんが,700年に倭国が滅亡するまでの流れについて記していきます。

倭国を混乱に陥れた「兄弟統治」について

 中国の歴史書『隋書』の倭国伝に「兄弟統治」についての記述があります。要約すれば,倭王は『天』と『日』の2人が存在し,基本は『天』が兄で,『日』が弟となり,天王が即位した後,問題や不都合があれば「日王」を擁立するというものです。
 隋の高祖は,この兄弟統治について改めるように訓戒を出したと言いますが,そもそも,どうして倭国はこの複雑極まりない「兄弟統治」を採用したのでしょうか?
 全ての発端は,欽明天皇による任那失陥に原因があります。任那は6世紀に入ると朝鮮半島内で独力では維持できないぐらい弱小化しており,さらに継体天皇の失策もあり,存亡の危機にありました。
 その状況を救ったのが宣化天皇です。宣化天皇は大伴狭手彦を任那に派遣し,任那の回復に一定の効果を上げました。
 ところが531年,宣化天皇を弑逆するクーデターが勃発しました。(詳細は『[考察]531年に崩御されたのは継体天皇ではなく宣化天皇である点について』を参照)
 これにより即位した欽明天皇は任那回復を百済に委託するという,任那政策の大転換を行いました。ところが百済の詐欺に遭い,任那復興はされないまま,委託した百済聖明王は戦死し,任那も滅亡してしまいました。(詳細は『[考察]任那滅亡の遠因について』を参照)
 この事態に激怒したのは倭国の群臣です。そもそも宣化天皇が在位していればこのような事態にはなっていなかったという思いもあるため,欽明天皇の政務を停止し,代わりの倭王を擁立することになったと推測しています。(『二中歴』所収の逸年号によれば,この時期,年号が重複していますが,これについては憶測の域を出ないため,参考程度に読み飛ばしていただければと思います)
 しかし兄弟統治の始まりは何時かと言えば,任那失陥の前後であったと考えています。

 元々,兄弟統治は任那失陥に対応するための緊急措置でした。ところがこれを群臣たちの派閥争いに利用されたのが,倭国を大混乱に陥れた原因です。

 571年,欽明天皇が崩御された後,息子の敏達天皇が即位しました。ところが敏達天皇の崩御後,息子の押坂彦人皇子が即位した時に,これに異を唱えた人物がいました。蘇我馬子です。
 蘇我馬子は娘を敏達天皇の弟達に嫁がせており,外戚としての権力を高めるため,弟の用明天皇を擁立しました。この時に利用されたのが「兄弟統治」の論法です。
 押坂彦人皇子を天王として傀儡に祭り上げ,用明天皇を「日王」として擁立したわけです。ちなみにこれも推測の域を出ませんが,天皇の和諡号に「日」の字が使用されているのは,兄弟統治において「日王」として即位した天皇だと考えています。
 用明天皇の崩御後,弟の崇峻天皇が即位しましたが,蘇我馬子に敵対したため弑殺され,用明天皇の皇子で聡明で名の知れていた厩戸皇子が即位します。『日本書紀』では「聖徳太子」として描かれ,皇太子の地位にありながら推古天皇に代わって国政を担っていたように描かれていますが,実際は即位し,この時代の倭国を担っていました。隋の煬帝に「書を日没の国に送る」で有名な逸話も,推古天皇ではなく,聖徳太子と呼ばれたこの天皇の功績になります。

 ここでは仮に聖徳天皇と呼ぶことにします。
 聖徳天皇は「日王」として倭国に君臨しましたが,隋の高祖から兄弟統治の是正を指示された際,これを好機と捉えて,押坂彦人皇子の「天王」を停止したと思われます。
 こうして倭国は聖徳天皇の系統に一本化されました。622年に聖徳天皇が崩御されると,息子の山背大兄王が即位しました。こちらも仮に山背天皇と呼ぶことにします。
 山背天皇はまだ若かったと思われますが,後ろ盾の蘇我馬子が存命の間は特に問題は起きませんでした。
 問題が起きたのは,626年に蘇我馬子が薨去した後です。山背天皇は蘇我一門の血を引いていますが,その頃,蘇我馬子の弟,境部摩理勢と,蘇我家筆頭の蝦夷が対立していました。境部摩理勢は山背天皇に愛されていたため,蘇我蝦夷はそれに対抗するため,かつて「天王」であった押坂彦人皇子の子(田村皇子)を擁立します。これにより,山背天皇は「天王」となり,蘇我蝦夷が擁立した舒明天皇が「日王」となります。

 このように,群臣の都合で「天王」と「日王」が目まぐるしく変わっていたのが,この時代の倭国だったのです。

山背天皇の弑殺と,乙巳の変

 641年,舒明天皇が崩御します。(『日本書紀』では641年となっていますが,舒明天皇の崩御年については一考の余地があることだけ記しておきます)
 この事態に恐れをなしたのが蘇我蝦夷です。なぜなら舒明天皇の子,古人皇子はまだ若く,山背天皇の一派が勢いを盛り返す可能性があったからです。
 このような不穏分子の芽を早々に摘むため,山背天皇に対する襲撃が行われました。(詳細は『[考察]643年,山背大兄王の薨去後に即位した天皇は誰か?』を参照)
 山背天皇を弑殺したことで,古人皇子の地位を脅かす皇位継承者はいなくなり,蘇我氏の立場も安泰になったはずでした。
 しかしそうはならなかったのが,倭国滅亡の遠因にも繋がる2人の中大兄皇子という存在でした。

 舒明天皇の皇后,宝皇女は押坂彦人皇子の系譜に連なる出自でしたが,最初,用明天皇の皇孫にあたる高向皇子に嫁ぎ,1人の皇子を儲けました。漢皇子です。
 

ところが舒明天皇が即位すると,皇后として立后し,2男1女を儲けます。『日本書紀』は長男の葛城皇子を中大兄皇子として記述し,乙巳の変もこの皇子が主導したように描かれています。しかしそれだと異母兄弟である葛城皇子が古人皇子の命を狙う動機が弱いのです。
しかしこれが山背天皇の血を引く漢皇子であれば話は別です。漢皇子は母の宝皇女が舒明天皇の後宮に入った時,連れ子として舒明天皇の下で暮らしたものと思われます。

 山背天皇が蘇我蝦夷の手に掛かり弑殺された時,同門の敵討ちを考えたとしても何も不思議ではありません。
 蘇我蝦夷も漢皇子の存在については警戒していたはずですが,645年,宮中で息子の蘇我入鹿が謀殺され,その翌日には蘇我蝦夷も官軍の手に掛かり亡くなります。
(2人の中大兄皇子については『[考察]2人の中大兄皇子』を参照)
 こうして漢皇子(開別皇子)は倭国の実権を握り,叔父の軽皇子(孝徳天皇)を擁立し,自分は皇太子の座に収まります。ところがこれに反発したのが,舒明天皇の子,葛城皇子でした。

日本国誕生について

 孝徳天皇の治世下,葛城皇子は皇位の奪還を狙っており,それを実行に移したのは,孝徳天皇が難波京に遷都した時でした。この時,葛城皇子は「飛鳥の倭京に戻りたい」と言って群臣を引き連れて孝徳天皇の下から離反しました。(『日本書紀』孝徳紀,白雉4年)
 孝徳天皇は654年に崩御します。孝徳天皇の崩御後,皇太子の開別皇子(天智天皇)が即位することになりますが,群臣の大半を掌握していた葛城皇子は母宝皇女を重祚させて,自分は皇太子の座に収まることで,次期政権への道筋をつけていました。
 開別皇子(天智天皇)に対する群臣の支持が少ないのは,まずは血統が葛城皇子と較べて弱いことにあります。
 葛城皇子は舒明天皇と皇極(斉明)天皇の子です。一方の開別皇子は皇極(斉明)天皇と,用明天皇の皇孫の高向王の子です。血統を重んじる群臣の立場から言えば,正当な皇統は葛城皇子に軍配が上がりました。
 しかしそれだけであれば,大きな問題はまだ起きなかったのです。決定的な問題点は,この両者は掲げていた政策が完全に対立していたことにありました。
 開別皇子(天智天皇)は『親唐政策』を掲げていました。一方の葛城皇子は『倭国の独立維持政策』を掲げていました。これは,倭国は誰にも干渉を受けない態度を貫くというものでした。
 660年,百済が唐の攻撃により滅亡すると,斉明天皇は百済再興の軍を興します。661年に斉明天皇が崩御されると,軍権はそのまま皇太子の葛城皇子が掌握し,戦争を継続します。この間,葛城皇子は即位し,年号も「白鳳」に改元しています。葛城皇子を仮で葛城天皇と呼ぶことにします。
 しかし百済再興戦は失敗に終わり,開別皇子(天智天皇)の「天王」家は事なきを得ましたが,葛城天皇の「日王」家は壊滅的な状況に陥りました。葛城天皇の弟の大海皇子が開別皇子の下に身を寄せたのも,こういった事情があったからです。
 開別皇子(天智天皇)の「天王」家は「日本国」を名乗りました。葛城天皇の「日王」家が正統な皇統を継いでおり,依然として「倭国」であったため,それに対抗するための「日本国」だったのだと思います。
(これについては『『大唐故右威衛将軍上柱国祢公墓誌銘并序』を読む』を参照)

 百済再興戦の失敗後,多くの倭国の臣民は東の方に逃れたと言います。しかし最も屈辱的だったのは,倭王が,唐の泰山の儀式に属国の王として参加させられたことでしょう。
 この時,日本列島は倭国と日本国に分断されていました。


 日本国は飛鳥を中心に勢力を保っていたものと思われますが,倭国は百済再興戦の折,九州に本拠地を構えたことから,大宰府周辺に都を定めたのではないかと思われます
 また百済再興戦を戦った人々が信濃国(長野県)に逃れた形跡もあるため,この時期の日本国は東西の倭国に挟まれていました。
 こうした最中,壬申の乱が勃発します。

壬申の乱について

 日本国の基盤は脆弱でした。なぜなら東西の倭国に挟まれていたからです。そこで開別皇子(天智天皇)は一つの手を打ちました。それは大海皇子を皇太弟とし,倭国に対抗する道でした。
 

 大海皇子は葛城天皇の同父同母弟です。血統的にも問題なく,大海皇子を擁立すれば,少なくともその点を突かれて敗れることはありませんでした。
 ところが開別皇子(天智天皇)が672年に崩御した際,息子の大友皇子を即位させようとしたところから日本国の衰退が始まりました。
 大海皇子は大友皇子の追手を逃れて東国に逃げ,そこで兵を募りました。大海皇子が東国に逃れたことを聞いて,朝廷の面々は恐れ戦いたと『日本書紀』は記しています。(『日本書紀』天武紀)
 これもそのはずで,東国は倭国の勢力圏だったからです。大海皇子がそこで兵を募れば,日本国は東西から挟撃される格好となります。
 この壬申の乱は,倭国の勢力圏であった東国に逃れて兵を募った大海皇子が大友皇子(弘文天皇)の軍勢を撃破し終息します。
『日本書紀』によれば,大友皇子は自害し,大海皇子は天武天皇として即位したとありますが,実際は倭国は存在しており,大海皇子は日本国の王として即位しただけに過ぎなかったのです。

 壬申の乱後,天武天皇は異父兄の天智天皇の皇子たちを庇護します。特に興味深いのは,天武8年5月6日に,吉野宮に皇后と皇子たちを集めて結束の誓いを交わしたことです。この誓いは「吉野の会盟」で知られ,この皇子たちの中には,天智天皇の子,芝基しき皇子も含まれていました。かつて敵対した天智天皇の子供であろうと,天武天皇にとって,兄,葛城天皇の存在の方が脅威であり,兄弟で争っていては倭国に滅ぼされると警鐘を鳴らしたのでした。

 686年,天武天皇は崩御しますが,「吉野の会盟」の誓いはすぐに反故にされ,この会盟に参加した大津皇子は謀反の罪で自害に追い込まれます。
 この後,鸕野讃良皇女(持統天皇)が即位します。

倭国滅亡

 葛城天皇や天智天皇,天武天皇といった激動の7世紀の主役級は既に世を去り,日本国王として即位した持統天皇は倭国に対してしがらみがなく,自由に施策を行える状況にありました。条坊制の藤原京の建設も画期的な施策ではありましたが,天武天皇の皇后という格付けは絶大で,倭国の2世王では太刀打ちできないほどの差がありました。
 この間,日本国は倭国の勢力圏の切り崩しを行っており,孫の文武天皇が即位する頃には,倭国の勢力圏は九州や中国地方の一部しかなかったのではないかと思っています。根拠は『続日本紀』文武天皇元年閏12月7日の記事で,飢饉が発生した国に播磨,備前,備中,周防,淡路,阿波,讃岐,伊予が記載されており,少なくともここに挙げられた国は日本国の勢力圏にあったのではないかと思われます。

 国力差で日本国は倭国を圧倒しており,当初,日本国は倭国を吸収する方向で調整していたのだと思います。しかし倭国の重鎮が徹底抗戦を叫んだためだと思いますが,武力による討伐しか手がない状況になり,冒頭の高安城の修理となりました。
 これほどの国力差があるため,倭国が瀬戸内海を進軍して大阪湾に侵入してくることはほぼ考えられない状況でした。それでも高安城を修理したのには1つの脅威があったためです。
 それは新羅国の存在でした。

 百済再興戦後,倭国は壊滅的なダメージを受けていました。しかし唐羅戦争が勃発し,新羅国は朝鮮半島から唐国の軍勢を追い返すことに成功しました。この時,新羅は倭国と同盟を結び,後方の憂いを取り除いていたものと思われます。
 朝鮮半島が新羅の勢力下に収まったことで,倭国は唐の影響を直接受けることがなくなりました。つまり倭国と新羅国の同盟は,どちらにとっても利点があるWin-Winの関係にありました。
 日本国が倭国に侵攻した場合,倭国は新羅国に援軍を要請するのは明らかでした。その場合,倭国は新羅国の援軍を引き連れて大阪湾に侵入し,藤原京を攻略する可能性もありました。
 結果的には高安城が防衛戦で活躍することはなく,700年,倭国は日本国の軍事侵攻により滅亡しました。『続日本紀』文武4年6月3日に,薩末での武装蜂起の記事がありますが,日本軍の追捕の手から逃れた者たちが武装蜂起したのだと考えれば,少なくとも700年6月までには倭国は滅亡したものと思われます。
 倭国滅亡後,高安城は廃城となりました。

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