409年?:倭・応神天皇崩御

高句麗,新羅との戦争が408年を境に途絶える

『高句麗好太王(広開土王)石碑』によれば,高句麗・広開土王の在位14年目(404年),倭は帯方郡の界隈に侵攻し大敗を喫しました。帯方郡の場所については諸説ありますが,5世紀初頭で言えば,高句麗と百済の国境付近に侵攻したのだと思われます。

 これは『中入り』と呼ばれる戦術であり,それまで新羅領内で戦っていた倭は突如,高句麗の本拠地を急襲することで一気に戦局を片付けようとしたのですが,この作戦は失敗し,「倭寇,潰敗す。惨殺されるもの無数」(『高句麗広開土王碑』)と記される大敗を喫しました。
『高句麗広開土王碑』には記された倭との戦いはこれが最後ですが,実は倭の戦いは続きます。


  新羅・実聖尼師今4年(405年)によれば,倭兵が明活城(韓国慶州市)を攻めたが勝てず,撤退したところを新羅の伏兵に遭い,敗退したとあります。(『三国史記』新羅本紀・実聖尼師今4年)
 その2年後の407年には倭人が新羅東部や南部に侵攻したという記事もあります。(『三国史記』新羅本紀・実聖尼師今6年3月,6月)
 このように『広開土王碑』に記されていなくても,新羅と倭の戦いは続いていました。
 それでは何故『広開土王碑』に倭との戦いが404年を最後に記されなくなったのでしょうか?
 その理由は,隣国の後燕が405年に高句麗に侵攻してきたからです。高句麗派その対応に追われており,とても新羅を救援する余裕がなかったのでした。
 後燕はかつて五胡十六国時代の主役の1人であった慕容皝ぼようこうが建国した前燕が370年に滅亡後,その息子の慕容垂によって384年に建国されました。僅か14年で再建されたのは,前燕を滅ぼした前秦が383年に東晋と淝水ひすい(中国安徽省淮南市)で雌雄を決する一大決戦を挑んだものの大敗を喫したからです。前秦はこの大敗で従属させていた武将たちを臣従させられなくなり,各地で離反が相次ぎました。後燕を建国した慕容垂もその1人でした。
 慕容垂は非常に英気溢れる君主でしたが,父慕容皝ぼようこうの版図を回復できないまま,息子の慕容熙ぼようきの代を迎えました。
 慕容熙は父とは似ても似つかない暗君であり,405年,高句麗に侵攻し,遼東城(中国遼寧省遼陽市)を陥落寸前まで追い込みました。ところが慕容熙はここで全軍に停止を命じました。理由は自分が皇后と輿で入城するため勝手に城に攻め入らないようにするためです。
 この命令のお蔭で高句麗は息を吹き返し,遼東城は辛うじて陥落を免れたと言います。(『三国史記』高句麗本紀・広開土王14年正月)
 その後,後燕の軍勢は撤退しましたが,高句麗はこの侵攻の対応に追われていたため新羅を救援できませんでした。
 この状況は倭にとって新羅侵攻の好機となりました。倭は405年,406年と新羅に侵攻し,408年には対馬に軍営を置いて新羅侵攻に本腰を入れました。(『三国史記』新羅本紀・実聖尼師今7年2月)
 しかし倭は新羅侵攻を408年を最後に一時中断し,次に倭が新羅に侵攻したのは7年後の415年のことでした。
 これは倭が連年のように新羅に侵攻していたことを考えると,異常なことでした。
 急に新羅侵攻を止めた理由については,2つあります。
 1つ目は,後燕が407年に滅亡したことが挙げられます。背後の憂いがなくなった高句麗は新羅の支援を再開することが予想されたため,倭は手を引かざるを得なかったという理由です。しかしそれならば後燕が滅亡した翌408年に対馬に軍営を置いていることの説明がつきません。
 そこでもう1つの理由として挙げるのが,応神天皇の崩御です。

太子の座を奪われた大鷦鷯皇子

 応神天皇は自分の後継者に皇后・仲姫后の子・大鷦鷯おおさざき皇子や皇后の姉・高城入たかきのいり姫命の子・大山守皇子ではなく,宮主宅媛の子・菟道稚郎子うじのわきいらつこ皇子を指名したいと思っていました。

『日本書紀』や『古事記』によれば,この時,応神天皇は菟道稚郎子皇子を立太子させたいと思い,大山守皇子と大鷦鷯おおさざき皇子を呼び出して「年上の子供と年下の子供はどちらが可愛いか?」と尋ねたところ,大山守皇子は「年上の子供が可愛い」と答えたのに対して,大鷦鷯皇子は「年下の子供が可愛い」と答えました。
 応神天皇は2人の弟にあたる菟道稚郎子皇子を立太子させると,自分が欲していた答えを出した大鷦鷯皇子を補佐役に任命しました。

 ところが大山守皇子は応神天皇の決定を恨んでおり,応神天皇が崩御すると菟道稚郎子皇子討伐の兵を挙げました。
 この反乱は菟道稚郎子皇子の補佐役となっていた大鷦鷯皇子が大山守皇子を討ち取ることで鎮圧されますが,この事件の後,菟道稚郎子皇子は即位を見送り,大鷦鷯皇子に譲位を持ち掛けました。
 ところが大鷦鷯皇子もこの話を頑なに拒み続け,3年もの間,倭王は空位となったと言います。
 その後,菟道稚郎子皇子は夭折(『古事記』)したとも,自害した(『日本書紀』)ともあり,どちらにせよ,すぐに薨去されたため,大鷦鷯皇子(仁徳天皇)が菟道稚郎子皇子の望み通りに即位しました。(『日本書紀』仁徳紀・即位前)
 応神天皇の崩御が仮に409年であったと仮定すると,仁徳天皇の即位は412年頃となります。
 この時,仁徳天皇は東晋に遣使しようと思い立ちました。即位の報告という面も若干はありましたが,当時,滅亡の危機に瀕していた東晋にそんな義理はありませんでした。
 それでは何故,倭は東晋に遣使しようと思い立ったのでしょうか?
 それについては,次の項で説明します。
 

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