417年:新羅・実聖尼師今の謀殺

倭国の歴史(編年体)

新羅・実聖尼師今について

 実聖尼師今は新羅第18代の当主です。父は大西知といい,新羅国内第2位・伊飡いさんと呼ばれる重臣でした。
 392年,実聖は高句麗に人質に出されました。この背景には,倭軍による新羅占領があります。

百残(百済国の蔑称)、新羅は古くからわが国(高句麗)の民であった。この両国は元々朝貢していたのだが、倭が辛卯かのとう年(391年)に渡海して百残を破り、新羅を□□し、倭の臣民としてしまった。

『広開土王碑』

『広開土王碑』によれば,391年に新羅は倭軍により占領されたため,時の新羅王・奈勿尼師今は重臣の子の実聖を高句麗に人質に出して援軍を要請したことがこの文面から推測できます。
 新羅王の奈勿尼師今ですが,『三国史記』によれば356年に即位し,在位47年で薨去したことになっています。この時代にしてみれば,在位47年はかなりの長命ですが,先代の訖解きっかい尼師今も在位47年で薨去しており,筆者的な見解では,この在位期間は疑わしいと考えています。そのため奈勿尼師今以前の時代を扱う場合は注意が必要になります。

冷遇された先代王の王子たち(訥祇,卜好,未斯欣)

 奈勿尼師今には訥祇とつぎ王子という王太子がいました。
 402年に奈勿尼師今が薨去した際,本来であれば王太子の訥祇王子が即位するはずでしたが,『三国史記』によれば,この前年(401年)に高句麗から帰国していた実聖が訥祇王子を差し置いて即位してしまいました。『三国史記』はこの背景について王太子が幼いことを挙げていましたが,どう考えても高句麗の後押しがあったことは容易に想像がつきます。
 問題はここからでした。実聖は奈勿尼師今の息子たちの中から未斯欣みしきんを倭国に人質として差し出しました。倭国との戦争を回避するためというのが表向きの理由ですが,その後も倭国との戦争は続いているので,単純に奈勿尼師今の息子たちを煙たがったからだと思います。
 また412年には奈勿尼師今の息子,卜好ぼくこうを高句麗に人質に出しています。これは高句麗・広開土王の薨去により高句麗の縁が切れてしまうことを懸念しての人質でした。
 こうして実聖尼師今は着実に先代(奈勿尼師今)の王子たちを国内から追放し,王権を固めていきました。
 残るはかつての王太子,訥祇王子だけです。訥祇王子さえ追放もしくは亡くなってしまえば,新羅国内で実聖尼師今の地位を脅かす存在はいなくなります。
 417年,実聖尼師今は人質時代にお世話になった高句麗から,訥祇王子暗殺の刺客を雇いました。

実聖尼師今の薨去

 実聖尼師今は訥祇王子に外出を命じ,外で待ち伏せしていた刺客に暗殺させる計画を立てました。
 この刺客は訥祇王子を暗殺しようとしましたが,訥祇王子の君子の人柄にため息をついて,
「王がわたしにあなたを殺害するように命じました。しかしわたしはあなたのことを殺すつもりはありません」
と暗殺計画を暴露し,高句麗に帰ったと言います。(『三国史記』新羅本紀・訥祇麻立干元年)
 身の危険を感じた訥祇王子は,先手を打って実聖尼師今を暗殺しようと考えました。しかしここで問題がありました。実聖尼師今を暗殺した場合,後ろ盾の高句麗が激怒することでした。
 それでも暗殺を決行したため,訥祇王子は高句麗との戦争も辞さない覚悟だったのだと思います。
 417年,実聖尼師今は元王太子であった訥祇王子の手に掛かり弑殺されました。
 その後,高句麗に人質に出されていた卜好王子はすぐに新羅に逃亡しました。
 訥祇麻立干は弟の卜好王子と6年ぶりの再会を喜びました。もともと高句麗とは戦うつもりでしたので,このこと自体,特に問題はなかったのです。
 問題は,倭国に人質に出されていた弟の未斯欣までもが帰国してしまったことでした。
 倭国の力を借りて高句麗と戦おうとしていた訥祇麻立干の目論見は完全に潰えてしまったのです。
 未斯欣の逃亡がもたらした影響は想像以上に大きなものでした。([考察]倭の五王の1人,倭王讃は何故2回目で遣使を取りやめたのか?

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