420年,東晋の滅亡
3世紀後半から朝鮮半島南部に進出した倭は,高句麗や新羅との戦いに一区切りがついた413年,東晋に遣使し,西方世界と交流を持ちました。3世紀に魏に遣使して以来,150年ぶりの出来事でした。
当時,中国大陸は各地で皇帝が割拠する五胡十六国の時代の最中にあり,その中でも東晋は群を抜いた強国でした。ところが東晋が中華を再統一できなかった要因の一つに,皇帝権威の失墜がありました。4世紀初頭に晋(西晋)が滅亡し,皇族の一人であった司馬睿(元帝)が辛うじて江南の地で晋(東晋)を再興したものの,臣下の協力なくして再興できなかったという点もあり,皇帝権威が著しく低下していました。特に4世紀中頃に何度も北伐を行い軍功を立てた桓温は,時の皇帝(孝武帝。司馬曜)に禅譲を迫る勢いでした。これは桓温の方が先に寿命が尽きたため成功しませんでしたが,息子の桓玄の代に禅譲を成功させ,403年に楚(桓楚)を建国しました。
桓玄は東晋の遺臣たちにより討伐されたものの,今度は桓玄討伐に軍功を建てた臣下たちが強大化し,その中で最も強勢を誇っていたのは劉裕でした。
415年,劉裕は荊州で人望を集めていた皇族の司馬休之を討伐しました。司馬休之は息子の司馬文思とともに後に北魏に下りました。
416年,劉裕は司馬徳文(後の恭帝)とともに後秦の姚泓を討伐しました。この年,後秦は隣国の夏の赫連勃勃に攻撃されており,そこに東晋の軍勢が侵攻してきたため,苦境に立たされました。後秦の将軍であった姚光が洛陽を開城したのを皮切りに各地での戦いに連敗し,417年7月,劉裕は長安を奪還し姚泓を捕縛しました。
劉裕はこの遠征で大功を立てた沈田子と王鎮悪に長安を守備させましたが,この2人は仲が悪く,418年にそれぞれ横死しました。こういった内紛もあり,長安は夏の赫連勃勃の攻撃を受けて陥落しました。
しかし洛陽,長安の奪還という大功を立てた劉裕は418年には宰相となり宋公の位が授けられ,この年の12月に安帝(司馬徳宗)を弑殺し,恭帝(司馬徳文)を即位させました。『晋書』によれば「昌明(孝武帝)の後,二帝あり」という予言に従い安帝を弑殺し,弟の恭帝を即位させた後,420年6月,恭帝より禅譲され,劉裕は宋(南宋。劉宋)を建国しました。
倭王讃について
南宋の建国はすぐに倭にも伝わりました。倭王讃(去来穂別天皇。履中天皇)はすぐに南宋に遣使しました。
『日本書紀』履中紀によれば,履中天皇は仁徳天皇の第一皇子(去来穂別皇子)とされています。ところが第一皇子でありながら,即位時に弟の仲皇子に謀殺されかかり,辛うじて都を脱出するものの,しばらくは石上神宮に身を隠します。この時,弟の瑞歯別皇子が去来穂別皇子のもとに駆け付けました。仲皇子は去来穂別皇子を都から追い落とした後,特段の備えも行っていなかったため,瑞歯別皇子は側近の刺領巾に仲皇子を暗殺を命じ,刺領巾は仲皇子を厠で暗殺しました。
仲皇子の薨去後,去来穂別皇子(履中天皇)は即位しました。ちなみに瑞歯別皇子は履中天皇の崩御後,反正天皇として即位します。
これが『日本書紀』履中紀による履中天皇即位の概略ですが,以下の点が史実と異なると考えています。
- 『日本書紀』は去来穂別皇子,仲皇子,瑞歯別皇子を同母兄弟としているが,その場合,弟の仲皇子が同母兄に謀反を起こす根拠が弱すぎる点。
- 仲皇子の方が謀反のリスクが高いはずなのに,去来穂別皇子を都から追い落としただけで油断している点。
→この油断は,仲皇子の方が正当な皇位継承者であるとすれば得心がいく。
→仲皇子と去来穂別皇子,瑞歯別皇子は母親が異なる。 - 去来穂別皇子,瑞歯別皇子の諱に「別」があり,仲皇子には「別」がない点。
→「別」の字は,父親または母親が異なる場合に冠される可能性が高いです。
例を挙げれば,開別皇子(天智天皇)です。開別皇子は当初,漢皇子と呼ばれていましたが,宝皇女(皇極天皇,斉明天皇)の連れ子として舒明天皇に引き取られた時,開別皇子と呼ばれたと考えています。 - 履中天皇の崩御後,市辺押磐皇子が皇位を継げずにいる点。
→履中天皇の即位に尽力した瑞歯別皇子の即位は理解できますが,允恭天皇(雄朝津間稚子宿禰天皇)の崩御後,その息子の木梨軽皇子,穴穂皇子,大泊瀬皇子が即位しているのは,皇位の正当性が市辺押磐皇子よりも允恭天皇の皇子たちの方が高かったからだと考えます。
→仁徳天皇の皇子でありながら允恭天皇の諱に「宿禰」が付されているのは,臣籍に下ったからだと考えます。一度,臣籍に下った身でありながら,允恭天皇の皇子たちが即位しているのは,皇統として允恭天皇の血統が正統であると群臣が認めていたからだと推測します。
→これは推測になりますが,仲皇子と雄朝津間稚子皇子は同母兄弟であり,一方の去来穂別皇子と瑞歯別皇子は仲皇子と母を異にしていた可能性があります。
ここまでを整理すると,次のようになります。
去来穂別皇子は仁徳天皇から皇太子として指名されていましたが,仁徳天皇の皇后(磐之姫命)の嫡出の皇子であった仲皇子は,去来穂別皇子を殺害して即位しようと企てました。去来穂別皇子は辛うじて窮地を脱しましたが,王都に帰ることができない状況が続きました。
この時,弟の瑞歯別皇子が応援に駆け付け,仲皇子を謀殺しました。
去来穂別皇子は王都に戻り即位すると,仲皇子の同母弟であった雄朝津間稚子皇子を臣籍に下し,後難の憂いを断ちました。しかし雄朝津間稚子宿禰は瑞歯別皇子(反正天皇)の崩御後,上の2人の兄の皇子たちを差し置いて即位することになります。
こうして仁徳天皇の崩御後,仲皇子との皇位継承争いに勝利した去来穂別皇子は即位し,420年,東晋の滅亡と南宋の建国を知ると,南宋に遣使しました。
南宋への遣使
当時,倭から南宋の道程は約1年です。南宋の建国は百済経由で情報を入手したものと思われます。
履中天皇(倭王讃)は使者を選定し,南宋に遣使しました。
『宋書』によれば,高祖武帝(劉裕)が永初2年(421)に「倭の讃は万里を越えて貢納してくれた。遠路遥々来朝し忠誠を示してくれたことに対する労いとして,除授する」との詔勅を下しました。この時点では倭王の称号はありませんでしたが,2回目の遣使(424年)で倭国王に除授されることになります。
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