424年の遣使(2回目)は,1回目の使節団の帰国後,すぐに実行された
421年,倭の使節団は南宋の創始者である武帝(劉裕)に謁見しました。当時,倭と南宋の道程は約1年であり,南宋の建国は420年であったことを考えれば,倭の1回目の遣使は挨拶の意味合いが強かったと思われます。
422年,この使節団が無事に帰国すると,倭讃(この時はまだ王号なし)は2回目の遣使を行いました。目的の1つには倭国王の除授がありました。
2回目の遣使の狙い
東晋の時代,倭が遣使した際,高句麗も東晋に遣使しており,こちらは時の皇帝(安帝。司馬徳宗)から高句麗王,楽安郡公を除授されていました。(『三国史記』高句麗本紀 長寿王元年(413年))
一方,倭はこの時まだ王号はなく,朝鮮半島におけるプレゼンスという点で倭は高句麗に負けていました。
4世紀後半から倭は朝鮮半島に進出し,5世紀初頭には百済を傘下に加えていました。一方,高句麗は新羅を属国としていました。
高句麗陣営と倭陣営に百済と新羅はそれぞれ分かれ,激闘を繰り広げていたのです。
ここに倭にとって新羅を傘下に加える最大の好機が訪れました。それは高句麗の傀儡政権となっていた実聖尼師今が暗殺されたことです。
実聖尼師今を暗殺したのは,先代の奈勿尼師今の息子,朴訥王子でした。朴訥王子はそのまま即位しましたが,当然ながら高句麗との関係は険悪化しました。
ここで新羅は倭に助力を求めました。当時,先代の奈勿尼師今の息子,未斯欣王子が倭に人質に出されていたため,この交渉自体はそれほど難航しませんでした。
倭讃は新羅と高句麗の断交を知ると,新羅を従属化するための策を進めていました。
使持節の知恵はどこから生まれたのか?
倭は新羅を従属させてえ朝鮮半島南部の支配を確立させるため,2つの策を練っていました。それは次のようなものだったと思われます。
- 高句麗と同格の倭国王を中国の王朝から除授され,プレゼンスを高める
- 倭国に従属している百済,三韓(馬韓,弁韓,辰韓),任那に,新羅も加えた形で,中国の王朝から支配を公認してもらう
特に2番目は5世紀における倭の基本方針でした。これを実現するため,倭は再度,南宋に遣使しました。
『宋書』倭国伝には「太祖の元嘉二年(425),讃,また司馬曹達を遣わし表を奉り,方物を献ず」としか書かれていませんが,弟の倭珍が遣使した際,使持節や安東大将軍,倭国王を自称していたため,倭讃の代にこういった自称はすでに行われていたものと考えられます。
もともと倭讃(履中天皇)と倭珍(反正天皇)は,仲皇子の誅殺で協力した間柄です。倭讃の方針は倭珍にも引き継がれるのは自然な流れでした。
この強引な手法で倭は朝鮮半島南部を支配下に組み込もうとしていたのです。
これに猛反対したのは新羅であり,高句麗でした。
新羅の訥祇麻立干は424年に仇敵の高句麗との同盟を模索しました。(『三国史記』新羅本紀 訥祇麻立干8年)
この年は倭が南宋に遣使した年でもあります。
また高句麗は425年に南宋と敵対していた北魏に朝貢をするようになりました。(『三国史記』高句麗本紀 長寿王13年)
こうした動きに呼応したのが,新羅の未斯欣王子の倭国からの逃亡劇でした。
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