429年:倭王珍(反正天皇)即位

倭王珍の遣使記事の整理

 倭王珍(反正天皇)は『宋書』の記述によれば,2回,遣使しています。
 1度目は430年(元嘉7年)です。

この月,倭国王は遣使し,方物を献ず。

『宋書』巻5 文帝紀 元嘉7年1月

『三国史記』によれば,この翌年(431年)に倭が新羅に侵攻し,新羅の明活城を包囲したとあります。(『三国史記』新羅本紀訥祇麻立干15年4月)
 何故,倭は新羅侵攻を再開したのでしょうか?
 その謎を解くため『宋書』に記載された倭王讃と倭王珍の遣使記事を下表に整理します。

西暦倭王『宋書』本紀『宋書』倭国伝内容
421武帝:永初2年武帝,倭讃の遣使と方物の献上に対し除授で報いる
425文帝:元嘉2年倭讃,司馬曹達を派遣し方物を献上
430文帝:元嘉7年倭国王が方物を献上
438文帝:元嘉15年倭国王珍を安東将軍に任命
438文帝倭国王珍を安東将軍に任命
倭国王珍,倭隋ら13人を平西,征虜,冠軍,輔国将軍に推挙。
『宋書』に記載された倭王の遣使記事について

 不思議なことに,倭王讃の遣使記事は『宋書』本紀になく,巻97の夷蛮伝(倭国伝)のみの記載となっています。ところが倭王珍の場合,『宋書』文帝紀と夷蛮伝(倭国伝)の両方に記載があります。しかも夷蛮伝(倭国伝)には,讃は倭王として記載されておらず,王号を省いた「倭讃」としか記されていません。
 倭国王と明記されたのは珍以降となります。
 ここで冒頭に記した『宋書』本紀のみに記載された430年の遣使記事について考察していきます。
 ここでは「倭国王」と記されています。倭国王と認められたのは珍以降です。つまり430年の遣使記事は倭讃ではなく,倭王珍によるものとなります。
 さらに言えば,翌431年,倭は新羅侵攻を行っています。仁徳天皇の時代の新羅侵攻(415年)以来,倭は新羅の人質であった未斯欣王子に脱走されたりするなど,国家の沽券に関わる事件が起きているのに戦争を行っていなかった倭が,何故,新羅侵攻を再開することになったのでしょうか?
 それは倭の方針が変更されたからです。
 倭讃(履中天皇)の時代,仁徳天皇の巨大古墳(大仙古墳)が築造されるなど,倭は財政的に安定していました。国力に余裕が生まれたため,外征に目を向けるようになったのだと推測されます。特に新羅は人質であった未斯欣王子を逃がすなど,倭にとって看過できない態度を取っていました。
 そうした中,倭讃(履中天皇)が崩御し,倭王珍(反正天皇)が即位しました。倭王珍(反正天皇)は履中天皇と仲皇子の皇位継承争いの際,仲皇子の謀殺に一役買うなど,好戦的な性格です。新羅に制裁を下すことを考えたとしても不思議はありません。
 430年,倭王珍は南宋に遣使し倭国王を名乗りました。『宋書』夷蛮伝(倭国伝)には自称していたとあります。『宋書』文帝紀には「倭国王」と記されていることから,この時,自称していた倭国王は南宋の文帝によって追認されたことが窺えます。
 こうして倭国王の地位を公認させた倭王珍(反正天皇)は立場的に新羅を庇護している高句麗と同格になり,新羅の背後にいる高句麗に臆することなく戦えるようになったのです。

倭王珍の即位年について

 このように見ていくと,倭王珍(反正天皇)は南宋に遣使した前年(429年)に即位したものと推測します。前年である理由は,当時,南宋と倭間の道程が約1年だからです。
 南宋に遣使後,倭王珍(反正天皇)は新羅侵攻に取り掛かりました。この侵攻により倭は朝鮮半島の泥沼の戦いに巻き込まれていくことになるのでした。

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