百済・東城王の死と武寧王の即位,倭国との再同盟について

百済再興後の躍進について

 475年,百済は高句麗・長寿王により滅亡しました。(475年,百済滅亡について
 その後,百済・文周王は遺民を連れて熊津で再興しましたが477年に暗殺され,代わって息子の三斤王が跡を継ぎました。ところが479年に病没したため,当時,倭国にいた末多また王子(東城王)が即位しました。(慕韓(馬韓)滅亡の原因について

 倭国が滅亡した百済を,わざわざ馬韓(慕韓)の一部を割譲してまで再興させたのは,決して温情だけではなく,百済に高句麗との最前線を任せたいという意図がありました。
 当時,倭国は雄略天皇(倭王武)のもと,新羅に対して何度も侵攻していました。
 479年,雄略天皇が崩御すると倭軍は撤退しますが,新たな脅威となったのは,北の高句麗でした。

 481年,高句麗・長寿王は新羅に侵攻すると,新羅の国都・月城付近にまで進軍してきました。
 そもそも高句麗軍が新羅国内奥深くまで侵攻できたのは,やはり百済の国力が弱体化したことが挙げられます。百済が弱体化していなければ高句麗は新羅だけに兵力を割くわけにいかず,そうなると新羅は今まで通り独力で高句麗と対峙することも可能だったからです。

 裏を返せば,新羅は独力で高句麗に対抗できなくなったため,新羅・炤知しょうち麻立干は近隣の百済や加羅に援軍を要請するしかありませんでした。
 百済や加羅も新羅の援軍要請に応じました。新羅が滅亡すると今度は自分たちが危うくなるからです。
 こうして新羅,百済,加羅連合軍が誕生し,高句麗を辛うじて撃退することに成功したのですが,今度は倭国との関係が悪化するという,さらに由々しき事態に陥ったのです。
 481年,倭国では清寧天皇が跡継ぎもなく崩御すると,清寧天皇の弟たちは全員幼すぎたため,履中天皇の皇孫に当たる飯豊青皇女が即位しました。この時代では珍しい女帝の誕生となります。

 482年,飯豊青天皇は雄略天皇以来の新羅侵攻を決定しました。(『三国史記』新羅本紀・炤知麻立干4年5月)

 飯豊青天皇の新羅侵攻により,百済は倭国に従って新羅と敵対するべきか否かで窮地に立たされました。
 当初,百済・東城王は倭国と敵対するつもりはありませんでした。しかし飯豊青天皇が在位4年で崩御し,代わって即位した顕宗天皇は在位3年で崩御,というように,短命で次々と皇位が代わると,当時の倭国は各地の豪族の連合政権のようなものでしたので,大王おおきみの求心力が低下し,各地の豪族を統率するための求心力が低下していったのでした。
 求心力が低下していった結果,任那では紀大磐が反乱を起こしました。紀大磐の反乱は,紀大磐の立場で言えば,任那を自衛するための独立運動でした。

 問題は紀大磐が百済も傘下に収めようとして百済に侵攻したことでした。
 これにはさすがに百済・東城王も激怒し,倭国に見切りをつけて新羅との同盟に踏み切りました。
 新羅と同盟した百済は南進し,498年,倭国傘下の慕韓を接収し,版図を拡大することに成功しました。
 慕韓を接収し百済をかつてのように大国に成長させた東城王でしたが,国内外に問題を抱えていました。国外の問題は,言うまでもなく倭国との関係です。新羅と同盟を結んでいるとはいえ,北に高句麗,南に倭国と大国に挟まれており,この状況下で挟撃されれば敗亡は必至でした。
 それでは難敵の倭国を滅ぼせるかというと,海を隔てた大国の倭国はどうあっても滅ぼすことができない国でした。つまり倭国についてはその存在を甘受するしかできなかったのです。
 似たような問題を抱えている新羅はそれが分かっていたから,城塞を築いて倭国の侵攻を防ぐことしかしませんでした。
 国内の問題は,この時期,百済国内は大旱魃に襲われたことでした。『三国史記』には次のように記されています。

 二十一年(499年)夏、大旱魃が起きた。国民が飢え、互いに殺して食べ合った。盗賊も多くなった。
 臣下や官僚が倉を開いて救済しようと王に願い出たが、王は許さなかった。そのため漢山の住人で高句麗に逃亡した者が二千人に及んだ。

『三国史記』百済本紀・東城王二十一年

 群臣が国内が飢えたので国庫を開いて救民しようとしたのを,どういうわけか,東城王がそれを許さなかったといいます。このようなことを続ければ,東城王に対する不満は高まり,やがて反乱へと繋がっていくのは歴史の常です。
 案の定,百済では不穏な空気が漂うようになりました。

百済・東城王の死

 百済国内では,東城王と家臣の間には溝が生まれていました。これは国内外の問題が噴出したことが背景にあったのではないかと思われます。
 この場合,溝を埋める努力が必要になるわけですが,東城王はそのような努力をせず,逆に臣下の諫言に対して耳を貸さず,宮殿の門を閉ざしたとも言います。(『三国史記』百済本紀・東城王二十二年)
 このような状況で,東城王は暗殺されました。事の経緯について『三国史記』は次のように記しています。

(501年)百済王は佐平の苩加(はくか)に加林城を守らせようとしたが、苩加は病気を理由に辞退した。しかし王が許さなかったため、苩加は王を恨み、刺客を放って王を刺傷させた。
  王は十二月に薨去した。

『三国史記』百済本紀・東城王二十三年

 重臣(佐平の苩加)により暗殺された百済・東城王ですが,『日本書紀』武烈紀には国人全員の意志で廃されたように記しています。

この年(502年)、百済の末多王は無道であり、百姓に暴虐をふるった。そこで国人は嶋王を立てた。武寧王である。【注一】

【注一】
『百済新撰』に次のように記されている。
末多また王は無道であり、百姓に暴虐であった。そこで国人が協力して除き、武寧王が立った。諱は斯麻しま王といい、琨支こんし王子の子であり、末多王の異母兄である。琨支王子は倭に向かう途中で筑紫の島に立ち寄り、そこで斯麻王が生まれた。斯麻王はその島で本国に送り返されたため、倭京に入らなかった。
  斯麻は島で生まれたことに因んで命名された。今、各羅(かから)の海中に主(=国主」の意)島がある。王が生まれた島であるため、百済人が主島と名付けた。」

『日本書紀』巻十六・武烈天皇四年

『日本書紀』の記述だけでは,無道な東城王が国人から離反されたようにしか見えませんが,無道な王が23年も在位できるわけがありません。
『三国史記』の記事と併せて考察すると,この時期,国内外に問題を抱えていたことが原因で東城王と群臣の間に溝が生まれており,それが原因で離反されたという解釈が可能になります。
 東城王の跡を継いで即位した武寧王はこの2つの国内外の問題を解決する必要がありました。
 この時,武寧王が打った最初の手は倭国との同盟でした。

倭国・百済との再同盟,そして漢城奪還

 慕韓(馬韓)は3世紀の頃から倭国と好を通じていた国家群でした。その慕韓(馬韓)を滅ぼして接収した百済を倭国が許すはずがない,とは誰もが思ったことでした。
 しかし東城王の跡を継いだ武寧王は慕韓の地を倭国に返還することもなく,倭国と同盟を締結するという離れ業を実現しました。
 この時期,武寧王が倭国と修好を図った証拠が隅田八幡宮に奉納された人物鏡に刻まれた銘文にあります。

 癸未の年(503年)八月、日十ひと?大王の年。男弟おおと王が意柴沙加(おしさか)の宮に在りし時、斯麻(百済・武寧王の諱)が長寿を念じて開中費(かわち)直と、穢人(えにん)(東方の異民族)の今州利(いますり)の二人を派遣し、白上の銅二百旱でこの鏡を作りました。

隅田八幡宮人物鏡・銘文

 武寧王の在位3年目に当たる503年に,武寧王は人物鏡を贈呈しました。この銘文から読み取れるのは,武寧王は即位すると真っ先に倭国との修好を図ったことです。
 実は倭国にとっても百済との同盟は渡りに船でした。仁賢天皇の崩御後,倭国では幼い武烈天皇が即位し,とても外征に手を回せる状況ではなかったからです。(雄略天皇の子,星川皇子は誰に対して反乱を起こしたのか?
 執政的な地位として男弟王(後の継体天皇)が就いていましたが,百済の不義を責めたくても出兵できなかったの実情だったのです。
 こうして倭国,百済の利害が一致を見て再同盟を結ぶことになりました。
 後顧の憂いを断った武寧王は,親の仇であった高句麗に果敢に攻め込むことになります。

(501年)冬十一月、達率(序列第二位)の優永に五千の兵で高句麗の水谷城(京畿道安城市新渓))を襲撃させた。

『三国史記』百済本記・武寧王元年十一月

(507年)冬十月、高句麗の将・高老と靺鞨だったんが共闘し、漢城を攻撃するため横岳の下に駐屯した。王は出陣し撃退した。

『三国史記』百済本記・武寧王七年七月

『三国史記』によれば,507年までに漢城を奪還したようです。
 武寧王が漢城まで進軍できたのは,1つは険悪だった倭国との関係を修復したことが挙げられます。
 倭国との再同盟が成立した最大の要因は,武寧王がその頃の倭国が欲しがっていたものを提供したからです。
 それは百済がかつてのように高句麗と戦い任那を守ることでした。
 外征に手が回らない倭国は,武寧王の提案を受け入れました。その結果,武寧王は慕韓を返還することなく,かつての王都の奪還に成功することができたのです。

 倭国は百済との同盟で「百済に任那を守らせる」という方針に切り替えていきます。これについては別で解説します。

結論

  • 雄略天皇の崩御後,倭国は短命の皇位が続いたため,倭国内の政情は不安定となり,任那では紀大磐の反乱が勃発。
    そのような倭国の内情に百済は見切りをつけて,倭国が長年敵対していた新羅と同盟を締結。
  • 倭国と敵対した百済は,倭国が庇護し続けてきた慕韓を接収。この結果,倭国と百済の関係は険悪化しましたが,501年,百済・東城王が弑殺されると,跡を継いだ弟の武寧王は倭国との関係を修復し,再同盟を実現。
  • 後顧の憂いを断った百済・武寧王は高句麗に進軍し,507年までには旧都・漢城を奪還することに成功。

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