554年に戦死した百済・聖明王は何故僅かな手勢で戦場に向かったのか?

倭国の歴史(考察)

『日本書紀』欽明紀4年(541年)までの任那の歴史(概要)

 3世紀,朝鮮半島南部には馬韓,弁辰,辰韓といった国がありました。弁辰は『三国志』魏志東夷伝によれば,男女の様子は倭人に近く,入れ墨をしていたといいます。
 倭人と風習的に似ている弁辰から分派したのが任那,加羅であり,451年,允恭天皇(倭王済)の時代,馬韓,任那,加羅,秦韓,新羅を含めた六国諸軍事,使持節の除授を南朝宋に遣使して奏上し,認められました。(倭王済が451年に2回目の遣使を行った理由について
 この時代が朝鮮半島南部にとって最も安定していたのだと思います。
 ところが允恭天皇(倭王済)の崩御後,跡を継いだ木梨軽皇子は新羅との関係を拗らせてしまい,朝鮮半島南部は戦火に包まれることになりました。
 その後,雄略天皇(倭王武)の時代まで馬韓,任那,加羅,秦韓の体制を維持していましたが,475年,百済が高句麗により滅ぼされると事態は一変しました。(475年に百済が滅亡した経緯と原因について
 百済は馬韓の一部の土地で再興を果たしましたが,百済単独では高句麗に抗うことはできず,馬韓,任那,加羅,秦韓との連携が必要になりました。
 雄略天皇(倭王武)の崩御後,高句麗は新羅に侵攻しました。これがこの時代の一つの契機となりました。新羅は百済や加羅に援軍を要請し,百済や加羅は新羅の救援に駆けつけましたが,倭国は新羅との関係を拗らせたままであり,高句麗に同調するように新羅に侵攻しました。
 これにより百済や加羅は倭国との関係に苦慮するようになります。さらに事態を悪化させたのは,任那の独立を図った紀大磐の乱でした。紀大磐は任那の版図に組み込むため百済に侵攻しましたが失敗し,この反乱はすぐに鎮圧されました。
 これに激怒した百済は新羅と同盟し,倭国と敵対しました。百済は5世紀末には馬韓を吸収し版図を拡大させましたが,ここで倭国と同盟し,侵攻の矛先を高句麗に転じました。(慕韓(馬韓)滅亡の原因について
 しかし馬韓滅亡により,倭国は朝鮮半島南部の防衛体制を大きく見直さざるを得なくなりました。三韓(馬韓,弁辰(弁韓),辰韓(秦韓))の中でも盟主的な地位にあった馬韓が滅亡したことで,残りの二韓だけでは防衛できなくなったからです。
 この二韓を防衛するには倭国の援軍が不可欠でした。しかし対馬海峡を越えて支援するのは倭国にとって負担となりました。
 ここで倭国は援軍を派遣するにしても最も遠く負担の大きい秦韓を百済に割譲しました。ところがこの割譲に激怒した一部の加羅,任那の国々は大規模な反乱(伴跛国の乱)を起こしました。この反乱は新羅を巻き込む形になり,新羅の反撃を受けて加羅はいくつかの国を失いました。(継体天皇が任那4県を百済に割譲した原因と結果について
 加羅支援のため,倭国は大軍を編成し新羅に侵攻しましたが,531年,新羅侵攻を指揮していた宣化天皇を義母弟の排開広国おしひらきひろくに皇子が弑殺しました。この結果,加羅は自国の存続を諦め,新羅に降伏してしまいました。(加羅の滅亡について
 排開広国おしひらきひろくに皇子(欽明天皇)は即位後,百済に任那を従属させる代わりに任那再建を命じました。ところが百済には任那を再建させる考えなどありませんでした。(任那滅亡の遠因について

任那の実効支配を狙った百済・聖明王

『日本書紀』は百済に対して任那の再建を指示していましたが,百済・聖明王にはその意志はありませんでした。それを示すのが『三国史記』の次の記事です。

(540年)百済からの使者が来訪し、和親を求めてきたのでこれを許した。

『三国史記』新羅本紀・真興王元年

 新羅は法興王が薨去し,真興王が即位しました。百済はこの機を狙って新羅との和睦を図りました。即位直後の真興王としては国内が安定するまでは外征に関わりたくなかったこともあり,百済との和睦に踏み切りました。
 ここで問題なのは,加羅を滅ぼした新羅との和睦を百済が望んでいたことでした。これは百済に任那再建の意志がないことを意味していました。
 この動きはすぐに倭国に察知され,百済に任那返還が通達されました。
 百済はすぐに詭弁を弄して任那返還を引き延ばそうとしました。『日本書紀』は百済・聖明王の詭弁について次のように記しています。

(543年)十二月、百済・聖明王は先の詔勅を群臣に披露して、
「天皇の詔勅はこの通りである。どのように対処するべきだろうか」
と訊ねた。
  上佐平の沙宅己婁(さたくこい)、中佐平の木刕麻那(もくらまな)、下佐平の木尹貴(もくいんき)、徳率(序列第四位)の鼻利莫古(びりまくこ)東城道天(とうじょうどうてん)木刕昧淳(もくらまいじゅん)国雖多(こくすいた)、奈率(序列第六位)の燕比善那(えんびぜんな)らが口を揃えて言った。
(わたし)らは愚昧であり、この問題を解決する智略を持ち合わせていません。任那を再建せよという詔勅について速やかに承諾するしかありません。どうか任那の執事、各国の旱岐らを呼び、作戦を練りましょう。また河内直、移那斯、麻都らはいまだに安羅にいます。それでは任那再建は難しいでしょう。そこで書状を送って本国に帰っていただきましょう」
  聖明王は言った。
「群臣の意見は予の考えと同じである」

 この月、施徳(せとく)(序列第八位)の高分を派遣して任那の執事と日本府の執事を呼び寄せたが、いずれも「元旦が過ぎてからお伺いします」との回答だった。

  五年(544年)春正月、百済国は使者を派遣して任那の執事と日本府の執事を呼び寄せたが、「神祭りがあるので、祭りが終わってからお伺いします」とのことだった。
 この月、百済は再び使者を派遣して任那の執事と日本府の執事を呼んだが、派遣されたのはいずれも執事ではなく身分が低い者であった。そのため百済は任那再建を相談できなかった。

『日本書紀』巻十九・欽明天皇四年十二月、五年一月

『日本書紀』によれば,百済・聖明王は何度も任那と日本府に使者を派遣し,任那再建を相談したいと持ち掛けました。これに対して任那と日本府は理由をつけて相談を断っていました。
 これだけを読めば,百済・聖明王は「任那再建をしたいのに,任那と日本府が協力してくれない」と言い訳する腹積もりなのは明らかでした。そのことは任那と日本府の執事も分かっていました。それでも相談を断っていたのは,百済・聖明王に任那再建の意志がなく,仮に新羅侵攻を百済と協力して行っても敗北するのは分かり切っていたからでした。

任那による新羅との交渉

 544年,百済は任那が裏で新羅と交渉していることを欽明天皇に上表して訴えました。そのやり取りについて『日本書紀』は次のように記しています。

(544年)三月、百済は奈率の阿乇得文(あとくとくもん)許勢(こせ)奈率奇麻(なそちがま)、物部奈率奇非(なそちがひ)らを派遣し、天皇に上表した。
奈率弥麻沙(なそちみまさ)奈率己連(なそちこれん)らがわが国(百済国)に到着し、詔書を披露しました。
『そなたら、日本府と計略を練り、早急に任那を再建せよ。よく注意せよ。他国に欺かれるな』
 また津守連らがわが国に到着し、任那再建について訊ねられました。謹んで詔勅を承り、時をおかずに計略を練ろうと思い立ち、使者を日本府【注一】と任那に派遣しましたが、彼らは『新年を迎えました。どうか年が過ぎたらお伺いします』と回答しましたがしばらく来ませんでした。そこでもう一度使者を派遣したところ、今度は『祭りがあるのでそれが終わったらお伺いします』と言って来ません。また招集したら下級の者が来ただけで、計略を練ることができませんでした。そもそも任那にはわが招集に応じる気がないのでしょう。これは阿賢移那斯(あけえなし)佐魯麻都(さろまつ)【注二】の悪巧みのせいです。任那は安羅を兄とし、安羅人は日本府を天と仰ぎ、その意に従っているだけです。【注三】
  今、的臣、吉備臣、河内直らは移那斯(えなし)麻都(まつ)の指示に従っただけでしょう。移那斯、麻都は身分が低いとはいえ、日本府の政務を壟断しています。また任那を専横し、邪魔して執事を派遣しませんでした。そのため計略を練ることができず、天皇に奏上できなかったのです。そのため己麻奴跪(こまなこ)【注四】を留めて、別の者を特使として飛ぶ鳥のように出立させて天皇に奏上しました。仮に二人【注五】が安羅にいて奸計を巡らすのであれば、任那再建は困難であり、海西の諸国は決して天皇にお仕えしないでしょう。どうかこの二人を本国に戻してください。そして日本府と任那に任那再建に協力するように訓示を垂れてください。そう思って(わたし)奈率弥麻沙(なそちみまさ)奈率己連(なそちこれん)らに己麻奴跪(こまなこ)を同伴させて上表したところ、次の詔勅が下りました。

『的臣ら【注六】が新羅と往復したのは朕の意ではない。印支弥(いきみ)【注七】と阿鹵(あろ)旱岐がいた時、新羅によって圧迫され、耕作できなかった。百済は遠く、危急に際して救ってくれなかった。そのため(いくは)臣らを新羅と往復させて耕作できるようにしたと朕は聞いている。もしも任那が再建されれば移那斯(えなし)麻都(まつ)は自然と退くことだろう。それは言うまでもないことである』

【注一】 『百済本記』には「鳥胡跛うごは臣を召した。これはいくは臣のことだろう。」とある。
【注二】 二人は名前である。すでに前の文に見えている。
【注三】 『百済本記』には「安羅を父とし、日本府を本とする」とある。
【注四】 これは津守連のことだろう。
【注五】 二人とは
移那斯えなし麻都まつのことである。
【注六】 「的臣ら」とは吉備弟君臣、河内直らを指す。

『日本書紀』巻十九・欽明天皇五年三月

 この記事では「任那は安羅を兄とし、安羅人は日本府を天と仰ぎ、その意に従っている」とあり,任那,安羅と倭国は密接な関係にありました。『広開土王碑』にも新羅国を巡って倭軍が高句麗軍と戦闘になった時、安羅人が救援に駆けつけたという記述があるように、倭国と安羅は古くから互助関係にありました。そのため任那を百済国に従属させたからといって,簡単に安羅が百済に忠誠を尽くすはずがなかったのでした。
 百済と任那の関係が悪化していく中,任那は新羅と耕作を巡り紛争状態になりました。この時,任那は百済ではなく,直接新羅と交渉し問題を解決しました。
 もともと百済は新羅との和睦を図っていたため,任那が新羅と交渉すること自体,外交上は問題ないはずでした。しかし任那との関係を悪化させていた百済にしてみれば,この動きは任那が新羅と共謀しているように映りました。
 このように百済が任那の陰謀を疑っていたところに,高句麗による百済侵攻が行われたのでした。

高句麗による百済侵攻

 545年,高句麗・安原王が薨去し、熾烈な後継者争いの末、長子の陽原王が即位しました。
 3年後の548年,高句麗は百済・独山城を攻撃しました。百済・聖明王は新羅に援軍を要請し,撃退に成功しました。(『三国史記』新羅本紀・真興王九年二月)
 ところがここで予想外の事態が起きました。高句麗軍を手引きしたのが安羅と任那日本府であったという噂が立ったのでした。
 百済・聖明王はこの背反行為をすぐに欽明天皇に報告しました。

 夏四月三日、百済は中部杆率・掠葉礼(けいようらい)らを派遣し、次のように奏上した。
「徳率の宣文(せんもん)らがわが国に到着し、詔勅を披露してくださいました。そこには必要に応じて援軍を派遣するという有難い恩詔がありました。感謝、この上ありません。しかし馬津(まし)城の戦役【注一】捕虜が語ったところによれば、『安羅国と日本府に呼ばれて討伐しに来た』と言っております。状況から考えるとあり得そうなことです。そこで何度も真偽を問うため招集しましたが来ようとしないので、このことに疑念を抱いております。願わくは、天皇【注二】は最初に真偽を明らかにしてください。それまでは援軍を止めて、臣の返事をお待ちください」

  詔勅を下した。
「奏上した内容を聞き、百済王が何に心配しているのかを理解した。日本府と安羅が隣国の災難を救わないのは朕の心痛むところである。また高麗に密使を派遣したというのは信用するべきではない。朕が命じたのであれば、直接派遣する。命令していないのだから勝手にできまい。願わくは、王は胸襟を開き、自然体で心安らかに、あまり深く疑わないでほしい。任那とともに先の詔勅の通り、協力してともに北の敵を防ぎ、それぞれ所領を守るように。朕は若干の人数を派遣し、安羅に詰めさせて空き地がないようにしよう」

【注一】 正月の辛丑の日に高麗軍が軍勢を率いて馬津城を包囲。
【注二】 西国は日本の天皇のことを
可畏かしこき天皇という。

『日本書紀』巻十九・欽明天皇九年四月三日

 安羅と日本府が高句麗軍を手引きしたのは、百済・聖明王が的臣らや延那斯、麻都を讒訴したことに対する報復でした。

 百済・聖明王は共闘するべき安羅と日本府を敵に回した状態でしたが,550年,高句麗の道薩城(韓国・忠清南道天安市)を攻撃し奪取しました。
 ところが高句麗軍は反撃とばかりに金峴城(韓国・世宗特別自治市全義面)を攻撃し陥落させました。
 このように両軍疲弊していく中,新羅は伊飡の異斯夫いしふが道薩、金峴城の二城を奪取し,漁夫の利を得た格好となりました。(『三国史記』新羅本紀・真興王十一年一月、三月)
 新羅の介入は百済にとって寝耳に水の事態でした。百済は新羅と和睦を結んでいたつもりだったからです。

 百済・聖明王はすぐに倭国に援軍要請しました。

大伴狭手彦の高句麗遠征

 550年,朝鮮半島は高句麗,新羅,百済による三つ巴の様相を呈していました。この状況を打破したのは,倭国から派遣された援軍でした。

 ある本に「十一年(550年)、大伴狭手彦は百済と共に高麗王・陽香を比津留都で追い払った」とある。

『日本書紀』巻十九・欽明天皇二十三年八月・割注

 この年(551年)、百済・聖明王は親征し、二国の軍勢【注一】を率いて高麗を討伐し、漢城の地を奪取した。また進軍して平壌を討伐し、六郡の地は元どおりに回復した。

【注一】 二国とは新羅、任那を指す。

『日本書紀』巻十九・欽明天皇十二年

 大伴狭手彦はこの時代屈指の名将でした。宣化天皇の在位中、三韓を鎮撫し、今度は高句麗・陽原王を追い払ったのです。百済・聖明王は勝勢に乗じて旧都・漢城を奪還し、さらに進軍して高句麗の国都・平壌まで攻略しました。
 百済・聖明王は漢城奪還で進軍を止めることもできましたが、自重しませんでした。
 そしてこれが致命傷となりました。追い込んだはずの高句麗と新羅が同盟を結び、百済国を攻撃してきたからです。
 この時の状況を『日本書紀』は次のように記しています。

(552年)五月八日、百済、加羅、安羅が中部徳率の木刕今敦(もくらこんとん)、河内部の阿斯比多(あしひた)らを派遣し奏上した。
「高麗と新羅が和親し、わが国と任那を滅ぼそうとしています。謹んで援軍を要請します。不意をついて先制攻撃します。援軍の数については天皇の勅命に従います。」
  詔勅を下した。
「今、百済王、安羅王、加羅王は日本府の臣らとともに使者を派遣し奏上した内容について聞いた。任那とともに協力するように。必ずや天の擁護があり、可畏(かしこ)き天皇の霊威にあずかれるだろう」

『日本書紀』巻十九・欽明天皇十三年五月八日

 高句麗・新羅の両軍に挟撃されて苦境に陥った百済は552年、奪った漢城と平壌を放棄しました。
 空いた漢城には新羅軍が入り、553年、新羅は漢城周辺の領地を新州として版図に加えました。(『三国史記』百済本記・聖明王三十一年七月)
 この事態を収拾するため、553年十月、百済・聖明王は王女を新羅・真興王に嫁がせました。(『三国史記』百済本記・聖明王三十一年十月)
 確かにこれで百済は新羅の侵攻を止めることができましたが、今度は任那が孤立し、新羅・真興王による任那侵攻を招いたのでした。百済は任那救援のため,新羅と再び敵対することとなったのです。

554年,百済・聖明王の戦死

 高句麗,新羅に挟撃された百済の戦いは,聖明王の戦死で幕を閉じます。
『日本書紀』は聖明王の戦死に至るまでの経緯を次のように記しています。

(553年)八月七日、百済は上部奈率の科野(しなの)新羅(しらき)、下部固徳の汶休帯山(もんきゅうたいせん)らを派遣し、上表した。
「去年、臣らは協議し、内臣德率の次酒(ししゅ)、任那の大夫らを派遣し、海外の宮家について奏上しました。恩勅を春草が甘雨を待つように待っております。今年聞いたところによれば、新羅と狛国は共謀しているようです。
『百済と任那は頻繁に日本に使者を送っているのは、わが国を討とうとしているからではないのか。それが事実であれば国の敗亡を座して待つようなものだ。まず日本の軍勢が出陣する前に安羅を討伐し、日本の侵攻路を塞いでしまおう』
 臣が聞いている謀はこのようなものであり、深く危惧しております。すぐに特使を早船で派遣し上表した次第です。願わくは速やかに先遣隊、後詰と立て続けに派遣し救援をお願いします。秋には海外の宮家は固まることでしょう。もし遅れれば臍を噛むことになります。軍勢をわが国に派遣してくだされば、衣服や兵糧はわが国で面倒を見ます。任那に派遣しても同様です。しかし任那でまかないきれない場合、わが国が必ずや補填します。的臣は天勅を受け、わが国の救援に駆けつけ、昼夜庶務に励んでくださいました。これにより海外の諸国は皆、その善行を賞賛し、何代にも語り継ごうと思っていましたが、不幸にも亡くなりました。心痛ましいことです。今、任那のことは誰にも修められません。どうかお願いです。速やかに任那を鎮撫するべく代理を派遣してください。また海外の諸国では弓馬が不足しております。今まで天皇の恩義を受けて強敵を凌いできました。お願いです。弓馬についても下賜願います」

  冬十月二十日、百済の王子・余昌【注一】は国内の兵を出発させて高麗国に向かい、百合野に城塞を築き、兵士と寝食を共にした。夕方、草原を見渡すと人の姿はほとんどなく、犬の声も聞こえなかった。そこに突然、軍鼓、吹奏の音が鳴り響いた。
  余昌は大変に驚いて軍鼓を鳴らして応戦し、夜通し堅守した。朝を迎えて広野を見ると、青山のように旌旗が充満していた。そこに頸鎧を着けた武者が一騎、(くすび)【注二】を指した者が二騎、豹の尾を指した者が二騎、併せて五騎が轡を並べて近づいてきた。
「麾下の者が広野に客人がいると言っていたので、礼をもって迎えに上がりました。礼をもってお答えしてくださる人の姓名、年齢をお聞かせください」
  余昌は答えた。
「姓は高麗と同姓。位は杆率、年は二十九」
  百済が同じように聞き返すと、高麗の方も同じ作法で答え、ついに合戦になった。この時、百済は高麗の勇士を馬から鉾で刺殺して首を斬り、鉾の先に首を掲げ、味方に示した。高麗の将軍は激怒した。この時、百済があげた歓声は天地を裂くようだった。その副将は軍鼓を打ち鳴らして戦い、高麗王を東聖山の上に追い込んだ。

【注一】 明王の子。威徳王である。
【注二】 鐃は未詳。

『日本書紀』巻十九・欽明天皇十四年八月七日、十月二十日

 553年,百済・聖明王の子,余昌(後の威徳王)は侵攻してきた高句麗と戦うため,戦場で指揮を取っていました。
 一方,百済・聖明王は倭国に援軍を要請するため筑紫に使者を派遣し,内臣、佐伯連は軍勢1000人を派遣することを約束していました。(『日本書紀』巻十九・欽明天皇十五年一月九日)
 ところが百済・聖明王は軍勢の少なさを危ぶみ,直接欽明天皇に上表し,援軍を要請しました。(『日本書紀』巻十九・欽明天皇十五年十二月)
 欽明天皇は1万の軍勢を援軍として派遣することを約束し,それを聞いた百済・余昌王子は新羅との戦闘に踏み切りました。この時の様子を『日本書紀』は次のように記しています。

「新羅だけならば内臣が率いた軍勢だけで事足りたかもしれません。今、こまと新羅が協力しているため成功が困難な状況にあります。願わくは、速やかに筑紫島の軍勢もわが国を救援し、任那も救ってくだされば成功します」
  また奏上した。
「臣は別に一万の軍勢を派遣し任那を救いますこと、併せて奏上します。今、事は急を告げており、単船でこうして奏上した次第です。ただ良好な錦二疋、毛蓆一領、斧三百口、及び城砦で捕えた男二人と女五人を献上します。少なくて恐縮です」

 この時、余昌が新羅討伐を計画したので、老臣が諌めた。
「天の時はまだ満ちておりませぬ。災禍を招きましょう」
 余昌は言った。
「老人よ、何を恐れることがあろう。われらは大国に仕えている。恐れることなどない」
  そこで新羅国に入り、久陀牟羅(くだむら)の砦を築いた。

『日本書紀』巻十九・欽明天皇十五年十二月

 百済・余昌王子が新羅との戦争を決断したのは倭国の援軍が到着することを期待してのものでした。
 このように転戦する余昌王子を聖明王は慰撫しようと思い立ちました。
 以下,『日本書紀』の記述です。

  父の明王は余昌が長らく軍陣で苦労し、寝食を十分にしていないのを心配し、父の慈愛に欠け、子の孝養を行う機会も作れていないと思い、軍陣に出向いて慰労しようとした。
  新羅は明王が親征すると聞いて国内の兵を集めて道を遮断し撃破した。この時、新羅は佐知村の飼馬の奴苦都(どこつ)【注一】に言った。
「苦都は卑しい奴隷であり、明王は名のある国主である。今、奴隷が国主を殺せば後世にその名が伝わり、忘れられることはないだろう」
  すでに苦都は明王を捕縛し、再拝して言った。
「王の首を斬らせていただきます」
  明王は答えた。
「王の首は奴隷ごときには手に余ろう」
  苦都は言った。
「わが国の法は盟約に背けば国王といえども奴隷の手にかかるものです」【注二】
  明王は天を仰ぎ、大きくため息をついて涙をこぼし、許した。
「予はいつも骨身に痛み入るほど耐えてきたが、万に一つも逃れる術はない」
  首を伸ばして斬られた。苦都は首を斬って殺し、穴を掘って埋めた。【注三】

【注一】 またの名を谷智。
【注二】 ある本に「明王は腿を伸ばして胡座をかき、佩刀を外して谷智に斬らせた」
【注三】 ある本に「新羅は明王の頭骨を手元に置き、残りの骨は百済に礼をもって送った。今の新羅王は明王の骨を政庁の北の階下に埋めている。この政庁を「都堂」という」

『日本書紀』巻十九・欽明天皇十五年十二月

 こうして百済・聖明王は戦死しました。
 僅かな兵を率いて戦場に向かったのは,高句麗,新羅と転戦する息子・余昌王子を慰労したいという親心でしたが,そもそも余昌王子が転戦を余儀なくされたのは,高句麗,新羅による挟撃を受けていたからです。
 このような状況を生んだのは,すべて551年に百済が高句麗国都・平壌を陥落させたことにあります。しかしこれも元を正せば,百済と敵対していた任那が高句麗軍を手引きしたことに端を発しており,さらに言えば,百済と任那が敵対したのは,百済が任那再建の意志もなく任那を従属させたことにあります。
 結局,百済は任那従属を倭国に持ち掛けて,その欺瞞のために聖明王は命を散らしたのでした。
 この後,任那は新羅によって滅亡を迎えます。

総論

  1. 任那は3世紀の頃から倭国と風習的にも似ていた弁辰(弁韓)の流れを汲んでおり,倭国との結びつきは強固でした。しかし馬韓,秦韓と滅ぶと,6世紀初頭には,任那単独で新羅,百済と戦うことができない状況に陥っていていました。
  2. 531年,欽明天皇が即位すると,百済は任那の苦境に付け入って「任那再建を果たす代わりに,それまでの間,任那を百済に従属させてほしい」と要求しました。これは実現し,任那は百済に従属しました。
  3. 百済に再建の意志がないことを知っていた任那は,水面下で高句麗と手を結び,百済への手引きを行っていました。これに激怒した百済・聖明王は倭国の援軍も借りて551年,高句麗に侵攻し,国都・平壌を陥落させました。
  4. 高句麗は国都を陥落させた百済に侵攻するため,新羅と同盟を結びました。高句麗,新羅に挟撃された百済は,倭国の援軍も借りて戦いましたが,554年,聖明王は,奮戦する息子の余昌王子を慰労しようとして,少ない手勢で戦場に向かおうとしたところを急襲され,戦死しました。
  5. 百済・聖明王の戦死後,任那は562年に滅亡しました。

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