倭王興が世子の立場で462年に南朝宋に遣使した理由について

倭の五王の一人,興は何故,世子(世継ぎ)の立場で南朝宋に遣使したのか?

 南朝宋(420年-479年)の歴史を記録した『宋書』倭国伝には5人の倭王の遣使記事が収録されています。この5人のうち,3人目の倭王済の事績が『日本書紀』に記録されていることは「[徹底解説]倭王済が451年に2回目の遣使を行った理由」で説明しました。
 今回取り上げるのは4人目の倭王興です。『宋書』には「倭王世子興,(略)新たに辺業を嗣ぐ。宜しく爵号を授くべく,安東将軍,倭国王とす」と記されており,倭王興は世子(世継ぎ)として遣使したことが分かります。
 今回は,何故,倭王興は倭王でなく世子(世継ぎ)の立場で南朝宋に遣使したのかについて説明します。
 その理由は,倭王済(允恭天皇)の崩御後,『日本書紀』には記載されていませんが皇太子・木梨軽皇子が即位していたからです。木梨軽皇子は即位後,群臣によって伊予国に追放され,代わりに弟の穴穂皇子が倭王代行(世子)となりました。穴穂皇子は第20代・安康天皇です。
 つまり第19代・允恭天皇と第20代・安康天皇の間には木梨軽皇子が在位していたことになります。
 倭王興が世子の立場で南朝宋に遣使したのは,まだ木梨軽皇子が倭王として在位していたからです。但し『古事記』によれば木梨軽皇子はまもなく配流先の伊予国で崩御(または自害)されたといいます。その事情を南朝宋は理解していたので,世子の立場であった興を「安東将軍,倭国王」に叙任しました。
 次項で,倭王済(第19代・允恭天皇)の崩御後,倭王興(第20代・安康天皇)が即位するまでの間に何が起きていたのかを説明します。

倭王済(允恭天皇)の崩御年は?

 倭王興について解説を行う前に,倭王済(允恭天皇)の崩御年の考察から始めます。その理由は『宋書』倭国伝の記述にあるので,そこから解説を始めます。

『宋書』巻九十七・夷蛮列伝

 済が死んだ。倭国の世子・興が使者を派遣し、献上品を奉じた。
 世祖(孝武帝。劉駿)の大明六年(462年)、次のように詔勅を下した。
「倭王の世子(世継)・興は代々忠義を尽くしており、外海に藩屏を作り、皇化を受けて辺境の安寧に勤め、恭敬に職務に励んできた。新しく辺業を継いだことにより、爵号を授け、安東将軍、倭国王とする」

 まず赤字の部分を読むと,倭王済が亡くなった後,倭王興が世子の立場で南朝宋に遣使したように読み取れます。しかし宋・孝武帝は倭王の世子興に「倭王」の爵号を除授しています。明らかに辻褄が合いません。
 この矛盾を解明するには,倭王済(允恭天皇)がいつ崩御されたのかを調べる必要があります。

『日本書紀』允恭紀によれば,允恭天皇の崩御年は453年です。ここで『日本書紀』允恭紀より允恭天皇の崩御の時の記述を引用します。

『日本書紀』巻十三・允恭天皇四十二年一月十四日

 四十二年(453年)、春正月十四日、天皇が崩御した。年齢は若干高い。
 この時、新羅王は天皇が既に崩じたことを聞き、驚いて心配した。貢物を載せた船八十艘、及び様々な楽人を八十人乗せて倭国に向かった。
 対馬に停泊後、新羅人は大哭し、筑紫に到着してもまた大哭し、難波津に停泊すると全員素服となり、貢物を献上し、様々な楽器を用意して難波から京に到着するまで哭泣し、儛歌ぶかし、殯宮もがりのみやで葬儀に参席した。

 ここで着目してほしいのは赤字の部分です。倭王済は450年に高句麗の侵攻から新羅を防衛しました。新羅の第19代・訥祗麻立干とつぎまりつかんは倭王済(允恭天皇)に感謝していたため,哀悼の意を表して使節団を倭国に派遣しました。
 この流れはごく自然な流れです。
 ところがこの後,倭国と新羅は交戦状態に突入しています。『三国史記』の次の記事を引用します。

『三国史記』新羅本紀・慈悲麻立干 2年(459年)

 夏四月。倭人が兵船百艘余りで東方から襲来し、月城まで進軍して包囲し、四方から矢や石を雨のように放った。
 王城を守り抜くと賊軍が退却したので、出撃して破り、海辺まで追撃した。賊の大半は溺死した。

 新羅の第20代・慈悲麻立干は訥祇麻立干の長子であり、458年に即位しました。その翌年(459年),倭国は新羅の国都・月城にまで進軍しています。
 倭国による新羅侵攻はこの年だけでなく,『三国史記』によれば462年、463年と立て続けに行っています。仮に『宋書』に記載されている通り,倭王興が462年(実際に倭国を出立したのは461年)に南朝宋に遣使していたとすると,その時にはすでに新羅と交戦状態にあったわけです。仮に倭王の世子興が遣使する461年に倭王済(允恭天皇)が崩御していたと仮定しても,倭国と新羅はすでに敵対関係でした。このような状況下で新羅が倭王済(允恭天皇)のために使節団を派遣するわけがありません。

 ここでもう一つ『日本書紀』雄略紀より倭王済(允恭天皇)の崩御年を絞り込みする記事を引用します。

『日本書紀』巻十四・雄略天皇 2年 7月 (『百済新撰』記事より)

 己巳(429年)年、蓋鹵王が即位した。天皇は阿礼奴跪あれなこを派遣し、宮仕えができる若い女性を探させた。百済は慕尼むに夫人の娘・適稽ちゃくけい女郎を立派に着飾らせて天皇に仕えさせた。

 赤字の部分は,百済・蓋鹵王は455年に即位しているため「己巳(429年)年」は明らかな誤記であり、正しくは「乙未(455年)」です。
 問題は紫色の部分です。ここで言う「宮仕え」とは天皇の妃です。しかし仮にこの天皇が倭王済(允恭天皇)と仮定すると,死期が迫っており高齢の允恭天皇がわざわざ若い妃を探し求めるのはかなり無理な話だと思うのです。

 倭王済(允恭天皇)の崩御年は『宋書』倭国伝で倭王世子興が遣使した462年でもなく,百済・蓋鹵王が即位した455年よりも前となります。しかし451年に倭王済は南朝宋に2回目の遣使を行っているので,少なくとも451年までは在位していました。
 このことから考察すると,倭王済(允恭天皇)は『日本書紀』の記述通り,453年に崩御したと考えるのが自然な流れだと思います。

皇太子・木梨軽皇子は何故,追放されたのか?

 倭王済(允恭天皇)は高句麗を撃破し,新羅を一時的とはいえ傘下に加えた偉大なる名君でした。倭王済(允恭天皇)の崩御後,皇太子の木梨軽皇子が即位するのは当然の流れでした。
 木梨軽皇子は即位後,百済・蓋鹵王に若い女性を妃に差し出すように要求し,慕尼むに夫人の娘・適稽ちゃくけい女郎が天皇の妃となりました。
 適稽ちゃくけい女郎は倭国では池津媛と呼ばれましたが,石河楯と姦通したため処刑されてしまいます。

『日本書紀』巻十四・雄略天皇 2年(458年) 7月

 二年秋七月、百済の池津媛は天皇の訪問に背き、石河楯と姦通していた。【注一】
 天皇は激怒し、大伴室屋大連に詔勅を下した。(大伴室屋大連は)来目部くめぶに命じて,この夫婦の手足を木に張り付けて仮庪さずき(木の棚)の上に置き、焼き殺させた。

【注一】旧本によれば、「石河股合首の祖、楯」という。

 池津媛の処刑は『日本書紀』によれば458年のこととされています。しかし458年とすると,次に引用する記事との辻褄が合わないのです。

『日本書紀』巻十四・雄略天皇 5年(461年) 4月

 夏四月、百済の加須利かすり君【注一】は池津媛【注二】が焼殺されたことを聞き、群臣と謀議した。
「昔、女を采女に仕立てて貢いだが、とんだ無礼によりわが国は面目を失った。今後は女を貢いで妃とさせない」
 そこで弟の軍君こにきし【注三】に次のように告げた。
「そなたは日本に行って天皇に仕えてほしい」
 軍君はこう返事した。

「天皇の命令は違えることはできません。どうかわが君の婦人を私に下賜してください。その後で残りの約束を果たしましょう」

 蓋鹵王(加須利君)は身籠っていた妃を軍君に与え、

「その妃は当月出産予定である。もしも道中で出産したら、別の船に乗せて、何処か適当な場所で速やかに国に送ってほしい」

 その後、軍君と別れ、軍君は朝廷に派遣されお仕えすることとなった。

 六月一日、その妊婦は蓋鹵王(加須利君)が言ったように筑紫の嶋で男児を出産した。この男児は嶋君と名付けられ、軍君は一艘の船に嶋君を乗せて国に送り返した。この男児が後の武寧王である。

 百済人はこの島をにむり嶋と呼んだ。
【注一】蓋鹵王という。
【注二】適稽女郎という。
【注三】崑支こんし君という。

 この記事で注目する点は赤字の部分,武寧王の誕生年です。実は武寧王は陵墓が発掘されており,墓誌に癸卯年(523年)に62歳で薨去したことが記されていいます。そのため武寧王の誕生年は461年となり,『日本書紀』雄略紀5年(461年)との整合性は取れています。
 問題は紫色の部分です。『日本書紀』によれば池津媛が処刑されたため,百済・蓋鹵王の弟・軍君(崑支君)が倭国に人質として向かいました。このことから池津媛が処刑されたのは461年かその前年(460年)となります。
 倭王の世子興が南朝宋に使者を派遣したのが461年であり,宋・孝武帝に謁見したのが462年であることを考えると,倭王興(安康天皇)の即位には先代の倭王(木梨軽皇子)による池津媛の処刑が関係していたことが推測されます。
 これを裏付けるのが『日本書紀』の次の記述です。

『日本書紀』巻十三・安康天皇・即位前

 皇太子(木梨軽皇子)は暴虐な振る舞いが多く、婦女に対して淫乱であった。そのため国人はこのことを誹謗し、群臣は太子に従わなくなり、皆、穴穂皇子(木梨軽皇子の弟)の側についてしまった。
 さて皇太子は穴穂皇子を襲撃しようと密かに兵士を集め、穴穂皇子もまた兵士を集めて戦おうとした。「穴穂が(や)(くく)り、軽が箭を括る」という事態はこの時初めて起こったことである。
 この時、皇太子は群臣が誰も従わず百姓さえも背いたので、ついに御所を脱出し、物部大前宿禰の屋敷に匿ってもらうことにした
 穴穂皇子はこのことを聞くと大前宿禰の屋敷を包囲した。(略)
 大前宿禰は皇子にこう言上した。

「どうか皇太子を殺さないでください。臣が何とか取計らいますので」

 その後、皇太子は大前宿禰の家で自害した。【注一】
 
【注一】一説には伊予国に配流したという。

 特に赤字の部分は,池津媛の処刑にも原因の一端があると考えます。池津媛の処刑により百済との関係が険悪化することを群臣は危惧したはずです。当時,倭国は新羅と交戦状態にありました。その上で百済とも交戦状態になると,倭王済の頃に確立した「倭,新羅,任那,加羅,秦韓,慕韓」の六か国の支配圏が崩壊することになるからです。

 左図は,4世紀後半の朝鮮半島の勢力図です。北の高句麗を百済が抑えてくれているからこそ,倭国は新羅と戦えていますが,ここで百済が敵対すると任那,加羅,秦韓,慕韓は北と東から攻められてしまいます。
 百済・蓋鹵王は倭国と断交しなかったため,この時は事なきを得ましたが,群臣はこのまま木梨軽皇子の治世が続くと倭国は崩壊すると考え,弟の穴穂皇子(安康天皇)を擁立したのだと考えます。

 その後,木梨軽皇子は穴穂皇子を討伐しようとしましたが百姓さえも背いたため,物部大前宿禰の屋敷に匿われたといいます。(紫色の部分
「百姓が背く」事態は,倭王済(允恭天皇)の崩御後,新羅と交戦状態に陥り,百姓が戦争に駆り出されるようになったからだと推測します。
 群臣や百姓に背かれた木梨軽皇子は物部大前宿禰に匿われた後,自害したとも,伊予国に配流されたともいいますが,『古事記』には,伊予国にはかつて木梨軽天皇が姦通した同母妹・軽大娘皇女がおり,二人で配流先で自害したという逸話が残されているので,『古事記』の方が真相に近いのではないかと思っています。
 木梨軽皇子が伊予国に配流された後,穴穂皇子は世子という立場で南朝宋に遣使しました。461年のことです。南朝宋は倭国での出来事を知り,穴穂皇子を正式な倭王として認め,「安東将軍,倭国王」を除授しました。
 また『日本書紀』では允恭天皇の崩御後,安康天皇がすぐに即位したことにされ,木梨軽皇子が在位していた事実は倭国の歴史からも抹殺されました。
 

結論

  • 倭王済(允恭天皇)は453年に崩御。(『日本書紀』允恭紀の記載通り)
  • 倭王済(允恭天皇)の崩御後,皇太子の木梨軽皇子が即位。木梨軽皇子は百済より皇妃(適稽女郎。和名:池津媛)を招聘。
  • 木梨軽皇子は461年に池津媛が姦通したことに激怒し,池津媛を処刑。これが国際問題に発展したため,群臣が弟の穴穂皇子(倭王興,安康天皇)を擁立。木梨軽皇子はまもなく自害。
  • 倭王興(安康天皇)は木梨軽皇子が倭王として在位していたため,世子の立場で南朝宋に遣使。但し倭王・木梨軽皇子の崩御後,即位。
  • 木梨軽皇子が倭王として在位していた事実は『日本書紀』から抹消され,允恭天皇の崩御後,安康天皇が即位したかのように『日本書紀』を編纂。

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