[徹底解説]「法隆寺金堂薬師如来像光背銘」に刻まれた謎について

「法隆寺金堂薬師如来像光背銘」に刻まれた謎について

 法隆寺は世界遺産にも登録されている寺院です。そこに安置されている薬師如来像の背中に「光背」と呼ばれる部分があります。後光を表現している部分のことです。そこには以下の銘文が刻まれています。(『上宮聖徳法王帝説』にも収録されています)

『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』

 池辺大宮にて天下を治めし天皇,大御身なり。労,時を賜れり。
 歳次丙午ひのえうまの年,大王天皇と太子を召して誓願賜る。『我が大御病を太平とし,せんと欲す』
 故に将に寺を造り,薬師像を作らんとし,詔を奉じつかまつる。
 然るに,当時,崩じ賜り,造るにへず。
 小治田おはりだ大宮にて天下を治めし大王天皇,及び東宮聖王は大命を受け賜り,歳次丁卯ひのとうの年,奉じ仕まつる。

(現代語訳)
 池辺大宮にて天下を治めし天皇が大病をお患いになられた。病苦は長らく続いた。
 丙午の年(587年),大王天皇と太子を召し寄せて誓願された。『我が大病を平癒し,この苦しみを断ち切りたい』
 そこで寺を造営し,薬師像を製作しようと決意され,詔勅を奉じられた。
 しかし崩御あそばされたので,造営することができなかった。
 小治田大宮にて天下を治めし大王天皇,及び東宮聖王は大命を受け継がれ,丁卯の年(607年),奉じらた。

 この銘文で疑問なのは以下の点です。

  • 通説では,池辺大宮にて天下を治めし天皇は用明天皇を指し,小治田大宮にて天下を治めし大王天皇は,推古天皇を指します。どうして用明天皇は「天皇」号であり,推古天皇は「大王天皇」と号しているのでしょうか?
  • 用明天皇が不予の際に召し寄せた「大王天皇」は,まだ即位していない推古天皇ではありません。ましては次に即位する崇峻天皇でもありません。
    この時,用明天皇が召し寄せた大王天皇は誰だったのでしょうか?

 この2つの謎について解説していきます。

「天皇≠大王天皇」

『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』は薬師如来像制作時に刻まれた銘文であり,第1級資料です。
「池辺大宮にて天下を治めし天皇」と「小治田大宮にて天下を治めし大王天皇」と使い分けているのは,天皇と大王天皇は別だからです。大王は「おおきみ」とも言い,第1級資料である稲荷山古墳出土の鉄剣や,隅田八幡宮人物画像鏡にも「大王」の名は刻まれている,古来から連綿と続く称号です。
 それでは天皇の名の由来はどこにあるのでしょうか?
 所説ありますが,中国の五胡十六国の時代,皇帝に代わる称号として「天王」を称したことがありましたが,個人的には,皇帝に近い称号として用いられたのだろうと推測しています。一つの仮説にすぎませんが,天王の称号が,いつしか「皇」の字に代わり「天皇」となっていったのだと思います。
 それでは「天皇」と「大王天皇」は同じ称号かというと,『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』では完全に別の称号として扱っています。
 もう一度,『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』を引用します。次は登場人物に番号を付します。

 池辺大宮にて天下を治めし天皇人物A)が大病をお患いになられた。病苦は長らく続いた。
 丙午の年(587年),大王天皇人物B)と太子人物C)を召し寄せて誓願された。『我が大病を平癒し,この苦しみを断ち切りたい』
 そこで寺を造営し,薬師像を製作しようと決意され,詔勅を奉じられた。
 しかし崩御あそばされたので,造営することができなかった。
 小治田大宮にて天下を治めし大王天皇人物D),及び東宮聖王人物E)は大命を受け継がれ,丁卯の年(607年),奉じられた。

 ここでA~Eの登場人物を整理します。

  • 人物Dは,『日本書紀』に従うのであれば推古天皇。(用明天皇(人物A)の妹)
  • 人物Eは,『日本書紀』に従うのであれば聖徳太子。(用明天皇(人物A)の子)
  • 人物Bは推古天皇(人物D)ではない。(『日本書紀』によれば,推古天皇の即位は593年であり,この時はまだ即位していません)
  • 人物Cは聖徳太子(人物E)ではない。(聖徳太子はこの時14歳であり,皇位継承者を指す太子の地位にいないため)
    用明天皇の崩御後,即位した崇峻天皇(泊瀬部皇子)こそが太子(人物C)の可能性が高い

 ここまでの流れを整理すると,次のようになります。

 587年,用明天皇人物Aは病床に大王天皇人物B泊瀬部皇子人物Cを招き,「病気恢復のため祈願してほしい」と詔勅を下しました。しかし大王天皇人物B泊瀬部皇子人物Cは寺院の造営と薬師如来像の製作を約束しましたが,まもなく用明天皇人物Aが崩御されたので詔勅を果たせませんでした。
 しかし推古天皇人物D聖徳太子人物Eはその詔勅を受け継ぎ,607年,寺院の造営と薬師如来像の製作を実現しました。

 このように読み解いていくと,用明天皇の他に,大王天皇(人物B)の存在が浮かび上がってきます。
 それはつまり,この時代,倭国には2人の天皇がいたことになります。

『隋書』倭国伝に記載される「兄弟統治」の実体

『隋書』倭国伝には,この時期の倭国が兄弟統治という二人の天皇による統治を行っていたことが記されています。

『隋書』巻81、東夷伝(倭国伝)

 開皇20年(600年)、倭王がいた。姓は阿毎あめ、字は多利思比孤たりしひこ阿輩雞弥あひきみという。
 使者を派遣し隋の国都(長安)を訪れた。上官がその国の風俗を訊ねたところ、使者は次のように答えた。
倭王は天を兄とし、日を弟としている。天は、日がまだ昇っていなければ政庁に出て跏趺坐し、政務に励む。しかし日が出ればすぐに政務を停止し、『我が弟に任せよう』と言う。
  高祖(楊堅)はこれを聞くと、
「それは実に義理が通っていない」
と言って訓令を与えて改めさせた。

『隋書』の記述で青字の部分を整理すると,以下のようになります。

  • 倭王には兄と弟がいる。兄王は「天」の名を冠している。弟王は「日」の名を冠している。
  • 必ずしも日弟王がいるわけではない。日弟王がいなければ,天兄王が政務を行う。
  • 日弟王が登場すると,天兄王は政務を停止し,日弟王に政務を委ねる。

 さて,用明天皇の諡号は「漢諡号」といって,8世紀に淡海三船という貴族が中国風に名前を付けたのが始まりです。当然ながら『日本書紀』編纂時には漢諡号はなく,和諡号で記されており,「橘豊日天皇」といいます。
 用明天皇の和諡号には「日」の字があります。『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』に登場する「大王天皇人物B」を差し置いて,用明天皇が日弟王として在位していた可能性があります。
 用明天皇の先代は第30代・敏達天皇です。敏達天皇は『日本書紀』によれば在位14年目の585年に崩御しています。
 

 敏達天皇の崩御後,子供の押坂彦人皇子が皇位を継承するのが自然な成り行きです。しかし『日本書紀』は弟の用明天皇が即位しています。
 ここで敏達天皇の皇孫を擁立する派閥と,それに反対する派閥による争いがあったことが予想されます。
 それは用明天皇の崩御後に顕在化する物部氏と蘇我氏の内訌です。
 この二人は仏教導入を巡って対立していました。物部氏は邇邇芸命の天孫降臨に同行した氏族であるため,倭国で広まりつつある新興宗教の仏教を毛嫌いしていました。
 一方,蘇我氏は仏教を信仰し,倭国内での布教活動に務めていました。
 ちなみに敏達天皇は仏教を信奉しておらず,用明天皇や息子の聖徳太子は仏教を信奉していました。
 仏教を巡って,水面下では物部氏と蘇我氏が激しく対立していたのです。

『隋書』倭国伝に記された「天兄王」と「日弟王」が実在していたとすれば,敏達天皇の崩御後,押坂彦人皇子が天兄王として即位しましたが,仏教を支持する蘇我氏の反発により用明天皇が「日弟王」として擁立されたのではないかと考えます。
 さらに仮説になりますが,『日本書紀』には,特定の皇子に「大兄」の名を冠していることがあります。押坂彦人皇子も「大兄」の名を冠しており,これは押坂彦人皇子が天兄王であったことを意味するのではないかと推測しています。

 ここまでの話で,『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』に登場する「大王天皇人物B」は天兄王であった押坂彦人皇子であったと考えます。
 用明天皇は崩御の際,天兄王であった押坂彦人皇子と,次の日弟王となる泊瀬部皇子(崇峻天皇)に病気恢復のため寺院造営と薬師如来像の製作を依頼したのでした。
 しかし押坂彦人皇子はその依頼を果たしませんでした。用明天皇がまもなく崩御されたからでした。
 さて,ここに問題があります。
 押坂彦人皇子と泊瀬部皇子(崇峻天皇)は用明天皇の詔勅を,用明天皇の崩御を理由に果たしませんでした。それならば何故,推古天皇と聖徳太子は20年も経ってからその詔勅を果たそうとしたのでしょうか?
 用明天皇の子供である聖徳太子ならば分かります。しかし推古天皇は敏達天皇の皇后であり,心情的には押坂彦人皇子と同じ立場にあります。
 そもそも推古天皇は即位していたのでしょうか?
『隋書』倭国伝の記述を読む限り,倭王は男性です。例えば女帝の推古天皇が立つのであれば,そのように記述するはずです。
 例を挙げるとすれば,この時期,新羅で善徳女王が即位しました。その時の様子を『旧唐書』は次のように記しています。

『旧唐書』巻199上 東夷 新羅伝

 是の歳,真平卒す。子無し。その女,善徳が立ち王と為す。宗室大臣の乙祭が総じて国政をしろしめす。

(現代語訳)
 この年(貞観5年 631年),真平王が卒した。男子はいませんでした。その娘の善徳が王として立った。宗室の大臣の乙祭いるじぇが国政を担うこととなった。

 新羅は第26代・真平王が薨去した時,娘しかいませんでした。しかし『旧唐書』は娘の善徳がいても「子無し」と記しています。つまりこの時代,女王が立つこと自体,異例なことだったのです。
 そのような状況なのに,推古天皇が在位していることを『隋書』や『旧唐書』が記載しないわけがありません。
 つまり『隋書』や『旧唐書』に記載していないということは,推古天皇は即位していなかったとも考えられます。
 推古天皇が即位していなかったと考える根拠については,以下で説明しています。

[徹底解説]即位していた聖徳太子
 
 この時期,即位していたのは聖徳太子(上宮天皇)だとすると,人物Dは上宮天皇であり,東宮聖王人物Eは山背大兄王となります。

 

結論

  • この時代,倭国は兄弟統治を敷いていた。天を兄王とし,日を弟王とする王制である。しかし他に例を見ないのは,天兄王は日弟王が登場すると政権を移譲する点である。
  • 用明天皇の和諡号は「橘豊日天皇」といい,「日」の名を冠していることより日弟王であった可能性が高い。一方,先代・敏達天皇の子である押坂彦人皇子は「大兄」の名を冠しており,「天兄王」であった可能性が高い。
  • 587年,用明天皇は病床に押坂彦人皇子と泊瀬部皇子を招き,寺院造営と薬師如来像の製作を依頼した。しかし用明天皇が崩御されたため,この計画は白紙にされた。
  • 20年後の607年,推古天皇(仮)と聖徳太子(仮)が用明天皇の遺詔を受け継ぎ,寺院(法隆寺)造営と薬師如来像の製作を実現した。

コメント