[考察]2人の中大兄皇子

開別皇子≠葛城皇子

 629年,第34代・舒明天皇は姪の宝皇女を皇后に立てた後,二男一女を儲けました。

『日本書紀』舒明紀 2年(630年) 1月 12日

 二年春正月丁卯朔の戊寅,宝皇女を立てて皇后と為す。后,二男一女を生む。
 一,曰く,葛城皇子。(近江大津宮にて御宇ぎょうせられし天皇)
 二,曰く,間人はしひと皇女。
 三,曰く,大海おおあま皇子。(浄御原きよみはら宮にて御宇せられし天皇)

(現代語訳)
 2年春正月12日,宝皇女を皇后に立てる。皇后は二男一女を生んだ。
 一人目は葛城皇子。(近江大津宮にて天下を治められた天皇
 二人目は間人皇女。
 三人目は大海皇子。(浄御原宮にて天下を治められた天皇)

近江大津宮にて天下を治められた天皇」は,第38代・天智天皇を指します。

 天智天皇の和諡号は「天命あめみこと開別ひらかすわけ天皇」です。
 舒明天皇の崩御の際,開別皇子は16歳でしのびごと(弔辞)を読んだといいます。

『日本書紀』舒明紀 13年(641年) 10月18日

 十三年冬十月己丑朔の丁酉,天皇は百済宮にて崩ず。
 丙午,宮の北にてもがりす。是,百済大殯と謂う。
 是の時,東宮開別皇子,年十六にして之を誄す。


(現代語訳)
 13年冬10月9日,天皇は百済宮にて崩御された。
 18日,百済宮の北でもがりを行う。これを百済大殯という。
 この時,東宮・開別皇子は16歳で誄(弔辞)を読まれた。

『日本書紀』では,この時初めて開別皇子の名が出てきます。そして「開別」の皇子名は天智天皇の和諡号となっているため,開別皇子は天智天皇となります。
 この後,645年に蘇我入鹿を中大兄皇子が暗殺します。『日本書紀』はこの事件に登場する皇子をすべて中大兄皇子として記していますが,『上宮聖徳法王帝説』では,蘇我入鹿を暗殺したのは近江天皇と記されています。

『上宮聖徳法王帝説』

 □□□天皇の御代,乙巳年(645年)6月11日,近江天皇,生年21歳が林太郎□□を殺害し,翌日にはその父・豊浦大臣とその子孫を全員滅ぼした。

 舒明天皇の崩御年については,641年ではなく640年と考えており,それについては別で解説しますが,645年に蘇我入鹿を暗殺した中大兄皇子は近江天皇=開別皇子となります。

 このように中大兄皇子,開別皇子の名は『日本書紀』に登場するものの,舒明天皇と宝皇后(皇極,斉明天皇)との間に儲けた葛城皇子の名は舒明紀2年以降,一切登場しません。

 しかし乙巳の変後,孝徳天皇が即位し中大兄皇子は皇太子となりますが,中大兄皇子は突如,孝徳天皇から離反します。

『日本書紀』孝徳紀 白雉4年(653年)

 この年,皇太子が次のように奏上した。
「倭京に遷りたいと思います」
 天皇は許さなかった。
 皇太子は,皇祖母こうそぼ尊(皇極上皇),間人皇后,並びに皇弟らを奉じて,倭の飛鳥河原の行宮かりみやに遷宮した。
 この時,公卿,大夫,百官の人々が皆随行し,遷ってしまった。

 孝徳天皇に「倭京(飛鳥)」に遷りたいと奏上した皇太子は,孝徳天皇の許可が得られないと知ると,皇極上皇,間人皇后と弟たちを連れて飛鳥河原宮に遷ってしまいました。この時点で皇極上皇,間人皇后,皇弟に強い影響力を与えられる存在は,長兄の葛城皇子です。
 つまり孝徳天皇から離反した皇太子は葛城皇子です。

 孝徳天皇は翌年(645年)に崩御します。この後,皇太子の中大兄皇子が即位するはずですが,何故か,母の皇極上皇が重祚します。(斉明天皇)
 この時,開別皇子は30歳です。年齢を理由に即位を見送るなどあり得ません。また,孝徳天皇から離反したので気まずくなって即位を見送ったというのも辻褄が合いません。何故ならば,皇極上皇も中大兄皇子と一緒に孝徳天皇から離反しているからです。
 しかし倭国は長らく,「天兄王」と「日弟王」による兄弟統治という特殊な天皇制を敷いていました。いずれ,兄弟統治が敷かれるようになった原因について解説しますが,この兄弟統治は倭国を長らく内訌に苦しめました。山背大兄王の事件も然り,壬申の乱も然りです。
 兄弟統治に終止符を打ったのは,大化6年(700年)です。その後,日本は治承寿永の乱や南北朝時代など両統迭立の時代はありましたが,兄弟統治はなくなりました。
 しかし『日本書紀』を編纂した8世紀初頭の時点では,兄弟統治は当然のように根付いていたのです。『日本書紀』はこの腫瘍を取り除くため,兄弟統治の存在そのものを消しました。

 さて,孝徳天皇の皇太子は開別皇子です。孝徳天皇から離反した皇子は葛城皇子です。葛城皇子が開別皇子だとしたら,孝徳天皇の崩御後,即位しなかった理由が説明つきません。しかし葛城皇子と開別皇子が別人だとしたら即位しなかった理由は,葛城皇子が皇太子ではなかったからです。
 孝徳天皇の崩御後,開別皇子は即位しました。(天兄王)
 一方,孝徳天皇から離反した葛城皇子は皇太子ではなかったため,群臣を連れて飛鳥に遷った後,別の天皇を擁立しました。(日弟王)

開別皇子の正体について

 それでは開別皇子は一体何者なのでしょうか?
『日本書紀』皇極紀に次のような記述があります。

『日本書紀』斉明紀

 天豊財重あめとよたからいかし日足姫天皇(斉明天皇)は,初め橘豊日天皇(用明天皇)の孫の高向王に嫁ぎ,漢皇子を生まれた。後に息長おきなが足日広額天皇(舒明天皇)に嫁ぎ,二男一女を生まれた。

 開別皇子は乙巳の変(645年)の時に21歳でしたので,生年は624年(数え年の場合625年)となります。母親の宝皇女が嫁いだのは,623年(数え年の場合624年)以前となります。
 この時代,上宮天皇(聖徳太子)は622年に崩御していますが,息子の山背大兄王が即位しており,用明天皇の皇孫が繁栄を謳歌していました。
 一方,田村皇子(後の舒明天皇)は敏達天皇の皇孫であり,天兄王から外れて長らく時が経っていました。田村皇子の姪に当たる宝皇女も敏達天皇の皇孫ですが,どちらもこの時は用明天皇の皇孫と較べて劣勢でした。
 この時期,宝皇女の政略結婚の相手として相応しいのは,用明天皇の皇孫にあたる高向王です。
 しかし蘇我馬子が薨去し,蘇我蝦夷によって日弟王が復活し田村皇子が擁立されると,一転して用明天皇の皇孫は凋落し,敏達天皇の皇孫に脚光が当たるようになりました。
 この時,宝皇女が高向王と縁を切り,舒明天皇の皇后として立后するのは至極当然と考えます。

 以上より,開別皇子は宝皇女が先夫・高向王との間に儲けた漢皇子であると考えます。
 

結論

  • 中大兄皇子は開別皇子と葛城皇子の2人の事績を合成した架空の人物である。
  • 開別皇子は宝皇女の先夫・高向王との間に儲けた皇子であり,葛城皇子は宝皇女が舒明天皇との間に儲けた皇子である。
  • 645年に蘇我入鹿を暗殺したのは開別皇子である。開別皇子は第38代・天智天皇である。
  • 645年,蘇我入鹿を暗殺後,叔父の孝徳天皇が即位し,開別皇子はその皇太子の座に収まる。しかし653年,開別皇子の異父弟の葛城皇子が離反し,母,弟妹,百官を引き連れて倭京(飛鳥)に遷る。
    この時,葛城皇子は別の天皇を擁立。(日弟王)
    孝徳天皇は天兄王となり政務を停止。兄弟統治が再開される。
  • 654年,孝徳天皇は崩御。皇太子の開別皇子は天兄王として即位。

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