『上宮聖徳法王帝説』の裏書
『上宮聖徳法王帝説』の巻末に掲載されている裏書について考察します。
まず原文を引用します。
裏書に云う。
『上宮聖徳法王帝説』裏書
庚戌春三月。学問尼の善信らが百済より還り,桜井寺に住む。今の豊浦寺なり。(割注:初め桜井寺と云う。後に豊浦寺と云う。)
蘇我大臣は豊浦大臣と云う。
観勒僧正は,推古天皇の即位十年,壬戌に来たれり。
仏工は鞍作鳥なり。鞍の祖父は司馬達多須奈なり。
ある本に云う。播磨の水田は二百七十三町五反廿四歩なり。又の本は三百六十町なり。
現代語訳
裏書にはこう記されています。
庚戌(590年)年の春3月,学問尼の善信たちが百済から帰国し,桜井寺に住みました。(割注:初め桜井寺といい,後に豊浦寺という)
観勒僧正は推古天皇の在位十年目(602年)に来訪した。
仏師は鞍作鳥という。鞍の祖父は司馬達多須奈である。
ある本には「播磨にある水田は273町5反24歩である」とある。別本には「360町」とある。
『日本書紀』敏達紀13年(584年)によれば,善信は司馬達等の娘であり,名を嶋といい,11歳で出家したといいます。善信はこの時11歳なので,生年は574年となります。
この時,善信の他にも2人の女性が出家し僧尼となりました。1人は漢人夜菩の娘で,名を豊女といい,出家後の名は禅蔵尼といいます。もう1人は錦織壺の娘で,名を石女といい,出家後の名は恵善尼といいます。
この3人の僧尼は氷田直と司馬達等が衣食を支援しました。
当時,仏教に対する風当たりは強く,物部守屋を始めとする反仏教派による排斥運動が行われていました。その中で蘇我馬子は仏法に帰依し,この3人の尼を崇敬したといいます。
『裏書』に従うならば,善信は出家後,百済に渡ったようです。百済は早くから仏教に導入していたので,まずはそこで修行し,590年に帰国し桜井寺の住僧となったようです。この時,善信は17歳でした。現在は豊浦寺は向原寺(奈良県高市郡明日香村)となっています。
ある本に云う。誓願し寺を造り,三宝を恭敬す。十三年辛丑,春三月十五日,浄土寺を始める。
『上宮聖徳法王帝説』裏書
注に云う。辛丑年,地を平らに始める。癸卯年,金堂を立つ。戍申,始めて僧住む。巳酉年三月廿五日,大臣害に遇う。癸亥,塔を搆える。癸酉年十二月十六日,塔の心柱を建つ。其の柱礎中,円穴を作り,浄土寺に列ねる。其の中は有盖大鏡一口を置く。内は種種珠玉を盛る。其の中は塗金壺有り。壺内は亦,種種珠玉を盛る。其の中は銀壺有り。壺中の内は純金壺有り。其の内は青□□瓶有り。其の内は舎利八粒納める。丙子四月八日露盤を上ぐ。戌寅年十二月四日,丈六仏像を鋳す。乙酉年三月廿五日,仏眼を点ず。山田寺,是れなり。(割注:承暦二年戌午,南一房,之れを写す。真曜の本云々。
現代語訳
ある本には「誓願して寺を造り,三宝(仏,法,僧)を恭敬した。舒明天皇13年,辛丑の年(641年)春3月15日に浄土寺を開基した」とある。
注にはこう記されている。
「辛丑の年(641年),土地の整地を始めた。
癸卯の年(643年),金堂を立てた。
戍申の年(648年),僧侶が住み始めた。
巳酉の年(649年),(蘇我山田石川麻呂)大臣が生害に遇われた。
癸亥の年(663年),塔を組み立てた。
癸酉の年(673年)12月16日,塔の心柱を立てた。その柱礎(柱と土台の石)の中に丸い穴を作り,浄土寺とつなげた。その中には蓋つきの大鏡を一口置いた。内側にはいろいろな珠玉を飾り付けた。その中には金で塗装した壺があった。壺の内側にはいろいろな珠玉を飾り付けた。その中には銀の壺があった。壺の内側には純金の壺があった。その内側には青□□の瓶があった。その内側には8粒の舎利が納めていた。
丙子の年(676年)4月8日,露盤(仏塔の相輪の一番下の四角い盤)を塔の上部に据え付けた。
戌寅の年(678年)12月4日,丈六仏像を鋳造した。
乙酉の年(685年)3月25日,仏眼を点じた。
これが山田寺である。(割注:承暦2年戌午の年(1078年),南の一房がこれを筆写した。真曜の本である)
ここでは山田寺に関して記載されており,山田寺に関しては発掘調査が行われています。
歴史の復元の視点から考察すると,649年に蘇我山田石川麻呂が弟の蘇我日向の讒言により自害に追い込まれた後,山田寺の造営は一時中断していますが,663年に再開している点について考察します。
663年は『日本書紀』天智紀2年にあたり,百済再興戦の最中であり,倭国が大敗を喫した白村江の戦いが記されています。しかし実際は百済再興戦は662年に行われており,663年は敗戦後のことでした。
倭国が敗戦した直後に山田寺造営を再開しているのは,倭国の敗戦により開別皇子が実権を握ることができたからだと推測しています。
開別皇子は後の天智天皇です。乙巳の変(645年)で蘇我蝦夷,入鹿親子を粛正した後,叔父の孝徳天皇を擁立し,開別皇子自身はその皇太子となっています。
乙巳の変の時,開別皇子は21歳の若者でした。蘇我山田石川麻呂の娘を娶り,蘇我親子の粛正に協力してもらい,乙巳の変を成功させました。
また蘇我入鹿誅殺後,蘇我蝦夷に与していた阿倍内麻呂はその後の反乱分子の掃討に尽力しています。
阿倍内麻呂と蘇我山田石川麻呂は乙巳の変後,左右の大臣に任命されます。
しかし649年3月17日に左大臣・阿倍内麻呂が薨去すると,わずか7日後に蘇我山田石川麻呂は弟の日向の讒言に遇い,3月25日には自害に追い込まれました。
蘇我山田石川麻呂の死後,後ろ盾を失った開別皇子は求心力を失います。その理由は,阿倍内麻呂と蘇我山田石川麻呂の死後に左右の大臣に任命された巨勢徳多と大伴長徳の両方と,開別皇子は何も繋がりがなかったからです。
開別皇子は乙巳の変後,蘇我蝦夷,入鹿親子の掃討に功績を立てたことで幅を利かせていました。しかし群臣の多くは,蘇我馬子,蝦夷と親子2代に渡って50年以上の長きに渡って大臣を務めてきた蘇我氏と少なからぬ縁がありました。たかだか20代の若者にすぎない開別皇子が幅を利かせているこの現状を強く憎んでいたのは,容易に想像できます。
こうして開別皇子は求心力を失いますが,孝徳天皇もまた群臣の支持を失います。孝徳天皇は難波長柄豊崎宮に遷宮しますが,飛鳥に戻る動きが起こり,皇極上皇や間人皇后までもが飛鳥に戻ってしまいました。(『日本書紀』孝徳紀白雉4年(653年))
孝徳天皇は翌654年に崩御します。普通に考えれば皇太子の開別皇子が即位する流れですが,『日本書紀』では皇極上皇が斉明天皇として重祚します。
しかし倭国では兄弟統治が採用されているため,孝徳天皇の崩御後,皇太子の開別皇子が即位したと考えます。しかし群臣の支持を得ていないため,開別皇子の対抗馬として皇極上皇が担ぎ出されました。
ここに,天兄王=開別皇子,日弟王=斉明天皇による兄弟統治が始まりました。
斉明天皇の皇太子には,舒明天皇の子の葛城皇子が収まりました。660年,百済が滅亡すると斉明天皇は百済救援軍を編成し出征しましたが,その途上で崩御されました。
斉明天皇の崩御後,葛城皇子が日弟王として即位しました。661年,白鳳に改元され,母の斉明天皇の遺志を引き継ぎ,百済再興戦に臨みます。しかし662年に白村江の戦いで大敗し,百済再興戦は失敗に終わりました。
この敗北で葛城皇子とその一派は崩壊します。代わって実権を取り戻したのは開別皇子でした。
これが663年の出来事です。
開別皇子は実権を取り戻すと,かつて自分の後ろ盾となっていた蘇我山田石川麻呂の冥福を祈るため,中断していた山田寺の造営を再開します。これは蘇我山田石川麻呂の孫にあたる持統天皇にも引き継がれ,蘇我山田石川麻呂の命日にあたる685年3月25日に仏像開眼の儀を迎えます。
途中,壬申の乱に見舞われますが,持統天皇は勝者の側についていたため,山田寺は壬申の乱後も造営を続けることができました。
蘇我日向子臣,字は無耶志臣,難波長柄豊崎宮の御宇天皇の世,筑紫大宰帥に任ぜらるなり。
『上宮聖徳法王帝説』裏書
甲寅年十月癸卯朔壬子,天皇不悆となり,般若寺を起こす,云々。□□京の時,定額寺と云う。
曽我大臣(割注:馬子なり)。推古天皇卅四年秋八月,嶋大臣(割注:曽我なり)病に臥せる。大臣のための男女,并せて一千人□□□□。
又の本に云う。廿二年甲戌秋八月,大臣病臥。卅五年夏六月辛丑薨ず。
現代語訳
蘇我日向子臣,字は無耶志臣は,難波長柄豊崎宮で天下を治められた天皇(孝徳天皇)の御世に筑紫大宰帥に任命された。
甲寅の年(654年)10月10日,天皇不予。般若寺の造営を発起された。
□□京の時,定額寺と言う。
曽我大臣(馬子)。
推古天皇34年(626年)8月,嶋大臣(割注:曽我である)が病に臥せた。大臣のために男女合わせて1000人を□□□□。
別本には「22年甲戌(614年),大臣が病に臥せる。35年(627年)夏6月辛丑の日に薨去する」とある。
ここでは蘇我山田石川麻呂を讒言した蘇我日向について記載されています。
裏書には蘇我日向は筑紫大宰帥に任命されたと伝えていますが,『日本書紀』はこれを「隠流」と伝えています。(『日本書紀』孝徳紀5年(649年)3月30日)
裏書になぜ蘇我日向のことが記されているのかは不明ですが,山田寺を発起した蘇我山田石川麻呂を讒言した人物の「隠流」を伝えたかったからではないかと思います。
この他に,孝徳天皇が不予となられたのが654年10月10日であることが記載されています。『日本書紀』孝徳紀白雉5年(654年)によれば,10月10日に崩御とあります。
この時期,孝徳天皇は皇太子の離反により孤立しています。この皇太子は中大兄皇子ですが,ここでは皇太子は後の天智天皇(開別皇子)であり,離反したのはその弟の葛城皇子であると考えています。(「2人の中大兄皇子」参照)
孝徳天皇の不予についても同じで,裏書になぜそのことが記されているのかは不明ですが,蘇我日向と同じで,蘇我山田石川麻呂を冤罪で自害に追いやった孝徳天皇の崩御について伝えたかったからではないかと思います。
こうして見ていくと,『上宮聖徳法王帝説』裏書は,蘇我馬子と関連の深い「浄土寺」および「山田寺」についての由緒を記していることが分かります。ここには,山田寺の造営に関わった蘇我山田石川麻呂,天智天皇,持統天皇の事績が簡単に述べられ,続いて山田寺を発願した蘇我山田石川麻呂を冤罪の罪で死に追いやった蘇我日向の隠流と孝徳天皇の崩御で締めくくられています。
結論
- 山田寺は蘇我山田石川麻呂の発願で造営が開始されましたが,山田石川麻呂の横死により一時中断となりました。しかし663年に山田寺の造営が再開されたのは,百済再興戦後,山田石川麻呂の娘婿である開別皇子が実権を回復したからです。
- 壬申の乱後も山田寺の造営が続けられたのは,壬申の乱の勝者に天智天皇の娘・持統天皇(山田石川麻呂の孫娘)がいたためです。
685年,山田寺は無事に仏像開眼の儀を迎えることができました。 - 裏書の最後は,山田寺を発願した蘇我山田石川麻呂を冤罪の罪で死に追いやった蘇我日向の隠流と孝徳天皇の崩御で締めくくられています。
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