そもそも,東日流国の開闢は今から遥かに遠く遡り,西海,北海が陸続きとなった広大な陸地で,支那や韓国に到るまで陸地であった。また渡嶋への北海も陸続きであった。
この世は万物の生命も『斑』であり,海に生物が住み,貝が生命の発源となる。
こうして陸にも草木が生えていったが,常に天変地異により固定せず,地は常に振動し停止することがない。幾万年も過ぎて,天地がようやく固定し,ここに人間の世が訪れるようになった。
人間の創成は猿のように知能を持っていなかった。南から移民してきた知能を持った人間の権能により,ついに万物の頂点に立つも,人間同士の闘争が激しくなり,常に弱肉強食の世を過ごすことになった。
東日流では阿蘇辺一族が開闢以来の住民であり,その日常は狩猟と漁業だけで生活し,定住せず,樹の下や岩穴で暮らしていた。1また時代が下り,津保化一族が大挙して津軽に移住するに及び,阿蘇辺一族と山河を血に染める戦いを行い,ついに津軽は津保化一族が掌握するところとなった。2これにより阿蘇辺一族は行来盛3に閉じ込められたものの,行来盛は突如として噴火し,その一族はことごとく焼死した。
ここに津保化一族は津軽全域に居住し,その主君は館を築き,勢力の強さで境界を定めたが,再び争奪戦が繰り広げられ,一族同士の流血は境界上で絶えなかった。4こうして時代が変わり,安日彦,長髄彦5の一族が大挙して津軽にやって来た。また支那からの漂着民6が時を同じくして津軽に永住してきた。
『東日流外三郡誌』東日流開闢(荒磯神社由書) ※現代語訳(拙訳)
津保化族はそれぞれの領地を守ったが,一族が団結していなかったため,倭族の侵略に抗ってみたものの瞬く間に敗れ,しまいには深山に姿を消してしまった。
倭族の者と支那漂流民とは,互いに知能があるため混血し,ここに荒吐一族と称して君主国を築いた7。
荒吐とは神の称号であり,天なる日,月,星と風,雲,雪,雨,稲妻,雷音,地なる陸,海,湖,山,川,を神と称している。
これが津軽開闢の始まりである。
元禄十年
書写 秋田頼季
【考察】
荒磯神社は現在は『荒磯崎神社』(青森県南津軽郡藤崎町)にある神社です。江戸時代の由緒書であるため,信憑性については検証が必要ですが,原住民・阿蘇部族と渡来人・津保化族の熾烈な争いの末,津保化族が勝利し,行来盛(岩木の森)に逃げ込んだ阿蘇部族は岩木山の噴火に巻き込まれて滅んだという内容が記されています。
その後,津保化族は津軽地方を支配したものの同族内で熾烈な争いがあり,やがて中央の戦乱から逃れてきた倭族(安日彦,長髄彦)や支那からの漂着民の侵略を許したと言います。
倭族と支那からの漂着民は互いに混血し,荒吐族という君主国を築いたと言います。
この由緒書は元禄十年(1698)に記録されたものです。
この津軽地方は日本海側に位置し,日本海側を南から北に向かう対馬海流の終着点になります。
パン大陸水没後,イヒン人を乗せた船団はジャフェス,セム,ハム,グアタマに向かいました。途中で二隻の船団が逸れてしまい,イスタに向かいました。
イスタに渡ったイヒン人は,中国(Jaffeth)に向かう船団と途中まで航路を同じくしていたものと思われます。その場合,パン大陸が水没したばかりの太平洋側を進むとは考えられないため,内海側(日本海側)を進んだと推測します。
日本海側を進んだ場合,対馬海流に乗って北上し,北海道または東北地方北部に漂着したものと思われます。
この地方には2021年に世界遺産に登録された縄文遺跡群がありますが,当時にしてはかなり高度で洗練された文化が構築されていました。この時代(縄文時代)の生活水準を大きく引き上げた背景に,イヒン人の高度な知識があった可能性もあると考えています。
日本には他にも縄文遺跡がありますが,例えば1万5,000年以上の大平山元遺跡(青森県東津軽郡外ヶ浜町)もその一つですが,この時代は神アポロの時代,または神ソーの時代に当たります。偽神アフラの侵略を受ける前の時代でありますが,後の神オシリスの時代に偶像崇拝が盛んになりますが,イヒン人が偶像崇拝に傾倒することはないため,有名な遮光器土偶はその後の偽神アフラの侵略を受けた後の産物ではないかと考えます。
アフラにより改竄されたゾロアスター教では,アムシャ・スプンタと呼ばれる諸神がおり,その中で大地を司る「スプンター・アールマティ」という女神がいます。この女神はアフラ・マズダーの妃とも言われていますが,何より重要なのは,アフラ・マズダーが創造主ジェホヴィに叛意を抱いたのは,ダンの闇の時代,地球上は創造主の光が届きにくくなりますが,地球上に創造主を儲けることでその問題を解消しようとしたことにあります。そのため「大地を司る神」はアフラ・マズダーにとって非常に重要な存在でした。
遮光器土偶は女性を象っており,モチーフは大地を司る「スプンター・アールマティ」ではないかと考えています。
世界遺産に登録された縄文遺跡群の中でも最大級の三内丸山遺跡は,神クペンタ・アミジ降臨後のスペタ弧の時代(紀元前4,000年~紀元前1,000年)の時代に該当し,偽神アフラの王国が崩壊した後になります。この場合,土偶はどの神を崇拝して作られたものなのかが重要になってきますが,考古学以外にそういった視点(スピリチュアル的な視点)でこの遺跡群を観察することも必要なのではないかと考えています。
【脚注】
- 人類誕生以来,阿蘇辺一族が原住民であったと記されていますが,パン大陸水没以前からこの地に住んでいたということになります。 ↩︎
- 津保化族が大挙して以来,阿蘇辺族との戦いがあったと記しています。 ↩︎
- 行来盛は「いわきのもり」と呼び,岩木山(青森県弘前市)の付近にあった森を指します。 ↩︎
- パン大陸水没後の津保化族がイスタのイヒン人だと考えていますが,同族同士で争ったのが事実だとするとイヒン人のイメージと異なるため,津保化族≠イスタのイヒン人であることになります。 ↩︎
- 長髄彦は,神武天皇と戦って敗れ服属(『古事記』),または殺された(『日本書紀』)人物です。安日彦は長髄彦の兄ですが,『日本書紀』などにはその名が見られません。 ↩︎
- 「支那(中国)からの漂着民」とは,中国(ジャフェス(jaffeth))に渡った船団から逸れてイスタに渡ったイヒン人の可能性もありますが,ここではそういった言い伝えもあるというだけを記載しておきます。 ↩︎
- 倭族の者とは,主に中央から逃れてきた安日彦,長髄彦の一団です。その倭族と支那漂流民は互いに知能があったため混血したとありますが,イスタのイヒン人が現地のイフアン人と混血したという記載は『OAHSPE』にも記載があります。(OAHSPE-18『主神の第5の書』5章-14) ↩︎
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