【OAHSPE考察】日本国憲法(第20条)の「信教の自由」について

日本国憲法(第20条)が保証する「信教の自由」と,『OAHSPE』が説く創造主のみの信仰,どう向き合えばよいのか?

日本国憲法(第20条)では「1.信教の自由」「2.宗教活動の自由」「3.国家の宗教からの独立」が明記されています。
「1.信教の自由」とは,どの宗教を信じるも信じないも自由である権利です。
「2.宗教活動の自由」は言葉通りで,他人の権利を侵害しない範囲で,自由に宗教活動に参加できる権利です。
「3.国家の宗教からの独立」は俗に言う「政教分離」であり,政治は宗教の影響を受けないことを宣言したものです。

問題は「1.信教の自由」にあります。『OAHSPE』では創造主のみを信仰し,それ以外の神や偶像は一切崇拝してはならないとあります。『OAHSPE』が死後の世界(天界)の真実を伝えた「真神の書」であるならば,日本国憲法がいくら「信教の自由」を保証しているからと言っても『OAHSPE』の言葉を蔑ろにはできません。なぜなら日本国憲法は死後の世界(天界)に通用しないからです。

「日本国憲法第20条」と『OAHSPE』,この両者とはどう向き合えばよいのでしょうか?

死後の世界(天界)について

『OAHSPE』では,創造主ジェホヴィのみを信仰し,それ以外の神,人間,偶像は一切信仰してはならないとあります。
創造主ジェホヴィの教義は,人間の精神(または霊魂)の成長であり,現世での成功はほとんど評価の対象に入っていません。現世の人間の霊魂は,霊魂の光の強度(階級)で評価されており,闇の霊魂ほどこの階級が低く,善良な霊魂は高い評価が与えられます。そして天界で暮らすには階級を50以上にしなければならず,死後の世界(天界)で闇の霊魂はこの光に耐えられず,神々はわざわざ光の強度が低い場所(天高原:plateaux)に天界を創って,そこに連れて行くようです。

そしてここが重要なのですが,実は人間は死んだら誰でも死後の世界(天界)に行けるわけではないのです。偽神や邪神を信仰している場合,その眷属として天使アシャールが霊魂を天使アサフに引き渡す前に邪神の眷属に奪い取られ,邪神の下へと連れて行かれるからです。現世で悪事を働き,多くの人々を困窮させた者は,成仏できない霊魂が寄ってたかり,地獄や「群れ」を形成し,そこに引き込まれてしまいます。
実は無事に天界に辿り着くのも苦労なことなのです。

このような状況で,日本国憲法が,本当に国民の死後の世界(天界)まで気に掛けるならば,「正しい宗教の信仰の自由」を保証するべきだと愚考します。

正しい宗教の見分け方

宗教とは,自分の心(精神)を豊かにし,永遠の生命(霊魂)を成長させるためのものです。そして霊魂の成長は現世(実体界)に対する執着をなくしていかないと成し遂げられないものです。なぜなら現世の財産をいくら増やしても,天界の神々が評価するのは霊魂の階級,つまり光(善心)の強度だからです。
それにも関わらず,現世の富を約束するような宗教がこの世界には多々あります。実は「霊魂の継続性」という概念があり,現世での行為は死後の世界にも継続されます。現世で信仰していた宗教は改宗しない限り,死後の世界にも引き継がれてしまう可能性が高いのです。
この場合,自分が信仰していた宗教の宗旨が「現世の富を約束する」というものだったとします。現世の富は死後の世界では役に立ちません。果たしてそのような宗教を信仰する意義など何処にあるのでしょうか?

例えば,人々を苦しめた分だけ幸せになれると説く宗教があったとする。その宗教を信仰していた者が亡くなった時,今まで苦しめて来た人々が寄ってたかって襲いかかり,地獄や群れ(:knots)に引き込んできます。
そのような宗教を信仰したいと思いますか?

「人々を苦しめた分だけ幸せになれる」という宗旨などあるわけがないと思うかもしれませんが,「自分が幸せになる」と説く宗教は大抵,この宗旨だと思います。なぜなら自分が幸せになろうとすれば,誰かの幸せを奪わなければならないからです。
それ故に『OAHSPE』は他人の幸せのための自己犠牲を説いているわけです。なぜなら自己犠牲に励むことで,自分の霊魂がその分,成長するからである。全ては死後の世界(天界)を睨んでのことです。

結論として,正しい宗教とは,他人を幸福にし,自分の霊魂(精神)を成長させるものであり,それ以外は偽神,邪神の類の宗教です。それが正しい宗教とそれ以外の見分け方だと考えます。

死後の世界(天界)のことを考えるならば,「日本国憲法(第20条)」で保障されているからと言って,どんな宗教でも信仰してよいわけでもなく,どんな宗教でも創設してよいわけでもないと考えます。
正しい宗教を信仰するか,もしくは一切宗教を信仰しないかのどちらかしかないのです。
一切宗教を信仰しないという「不信仰心」は実は重要な要素であり,その者は実証精神が強くなる傾向があります。ただ,「不信仰心」は信仰心を持つ人を軽視する傾向も強くなります。不信仰者が自分の信念を貫くのは勝手ですが,不信仰者が信仰心を軽視したり,妨害するのはそれこそ自粛するべきだと思います。

結論

「日本国憲法(第20条)」の「信教の自由」とは,正しい宗教を信仰するか,もしくは一切の宗教を信仰しないかのどちらかありません。誤った宗教を信仰するぐらいならば,いっそのこと信仰しない方がまだましなのです。その場合,謙虚を心掛けなければなりません。
この世界は人間が自然に誕生したわけでなく,人間や世界の誕生や成長には神々の御業があるからです。
不信仰を貫くのであれば,せめてこの世界の創成に携わっている方々への感謝を忘れてはいけないのだと思います。

日本は『OAHSPE』でも特別な国として見做されています。古代のパン大陸の水没の際,水没から免れたその残滓だからです。
日本は他の国と異なり,あまり宗教が根付かない地域です。それでも,布教するならば正しい宗教だけにするべきであり,日本の未来を考えるならばそうあるべきだと考えます。

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