平安時代に奥州一帯に割拠した藤原一族について(概略)
日本の古代東北地方は奥州とも呼ばれ,江戸時代に編纂されたと言われる『東日流三郡誌』によれば,先住民の阿蘇辺族が暮らしていたが,後に津保化族の侵攻を受け,さらに日本の本州からも大勢の渡来民が押し寄せてきて,彼らを一つにまとめ上げて「荒吐王」の名の下に連合王国を作り上げ,古代東北地方(奥州)を統治してきたと言います。
時代が下り,平安時代,奥州の地は荒吐王の後裔の安倍氏が統治していましたが,前九年の役(1051~1062年)で奥州の安倍氏は日本の中央政府の討伐軍に滅ぼされ,安倍氏の血縁であった清原氏の内訌に端を発した後三年の役(1083~1087年)で勝利した藤原清衡が奥州の支配者となりました。
藤原清衡は平泉(岩手県西磐井郡)に中尊寺を造営し,清衡の死後,その遺体は防腐処理を施され,金色堂と呼ばれる黄金に包まれた阿弥陀堂内の棺に安置されました。
藤原清衡の死後,息子たちの間で跡目争いが起きました。その争いに勝利した基衡は奥州藤原氏の2代目となり,中央政府との関係を良好に保ちながら勢力を維持してきました。
基衡も父清衡と同様に,死後は中尊寺金色堂内の棺に遺体は納められました。
基衡の跡を継いだのは息子の秀衡であり,秀衡も父基衡同様に中央政府との関係を保っていましたが,平氏や源氏の台頭による争乱の時代へと突入し,特に源氏一門の源義経を奥州の地に匿ったことが後に火種となりました。中央政府の権勢は源平の合戦に勝利した源頼朝を始めとする鎌倉政権の台頭により失墜し,その源頼朝は源平合戦に功績のあった弟の義経と確執を生み,義経と縁のあった奥州藤原氏もその争いに巻き込まれたからでした。
しかし秀衡は中立を貫き,秀衡存命の間は奥州は平穏を保つことができました。
秀衡の死後,遺体は祖父や父同様に,中尊寺金色堂内の棺に納められ,家督は息子の泰衡が継ぎました。
泰衡も父秀衡と同じく源義経を匿い,中立を貫こうとしましたが,鎌倉政権の圧力が強まっていく中,ついに抗いきれず,源義経を殺害しましたが,それを口実に鎌倉政権の討伐を招き,奥州藤原氏は1189年に滅亡し,約100年に及ぶ奥州藤原氏の支配は終焉を迎えました。
泰衡は平泉から落ち延びましたが,家来の裏切りにより殺害されました。その遺体は首だけが中尊寺金色堂内の棺に納められました。
中尊寺金色堂内の棺の納められた藤原4代の血液型について
中尊寺金色堂に納められた奥州藤原4代の遺体は昭和に入り調査され,その結果,血液型は下表であることが知られています。
名前 | 続柄 | 血液型 |
---|---|---|
藤原清衡 | 初代 | AB |
藤原基衡 | 清衡の子 | A |
藤原秀衡 | 基衡の子 | AB |
藤原泰衡 | 秀衡の子 | B |
血液型には以下のような特性があると考えています。
・A型・・・規律,秩序を重んじる性格
・O型・・・調和,協調を重んじる性格
・B型・・・変革,個の力を重んじる性格
・AB型・・・A型とB型の両方の性格に変じることができる
国家の統治者という視点で見た時,上表に略歴をあてはめると下表になります。
名前 | 続柄 | 血液型 | 略歴 |
---|---|---|---|
藤原経清 | 清衡の父 | ? | 中央政府から派遣された役人。 前九年の役で安倍氏に寝返ったが,敗戦後,戦役の元凶の一人として処刑 |
藤原清衡 | 初代 | AB | 清原氏の当主真衡に反旗を翻し,後三年の役を端緒を開く。 この戦役で清原氏を一掃し,戦後,奥州の統治者としての地位を得る。 |
藤原基衡 | 清衡の子 | A | 奥州藤原氏2代目。清衡の死後,跡目争いに勝利し家督を継ぐ。 就任当初は中央政府と対立していたが,後に協調路線に転換。 |
藤原秀衡 | 基衡の子 | AB | 奥州藤原氏3代目。父同様に中央政府との協調路線を採っていたが,源平合戦の際は中立の立場を貫く。後に源頼朝の弟義経の処遇を巡り,頼朝と対立。 |
藤原泰衡 | 秀衡の子 | B | 奥州藤原氏4代目。父同様に中立の立場を採っていたが,源頼朝の圧力に屈し,匿っていた義経を殺害。それを口実に頼朝の討伐を招き,滅亡する。 |
上表では,藤原4代の他に,清衡の父経清を加えています。
この表で考察が必要な点は赤字の部分です。
奥州藤原氏は,AB型を基調とする一族であることは掲載した表から読み取ることができます。
そしてA型の特徴である「規律,秩序」,そしてB型の特徴である「変革」が,それぞれの時代に表れています。
名前 | 続柄 | 血液型 | 略歴(要点) | 血液型が及ぼした影響 |
---|---|---|---|---|
藤原経清 | 清衡の父 | ? | 前九年の役で安倍氏に寝返り。 | B型(変革,変化) |
藤原清衡 | 初代 | AB | 清原氏の当主真衡に反旗を翻す。 | B型(変革,変化) |
藤原基衡 | 清衡の子 | A | 就任当初は中央政府と対立。 後に協調路線に転換。 | A型(秩序) |
藤原秀衡 | 基衡の子 | AB | 中央政府との協調路線。 源平合戦の際は中立の立場を貫く。 | A型(秩序) |
藤原泰衡 | 秀衡の子 | B | 中立の立場を捨てて,匿っていた義経を殺害 | B型(変革,変化) |
奥州藤原氏が何故,4代目で滅亡したのか?
血液型には,次代に引き渡すのに相応しい相手がいます。A型の指導者の下にはO型の部下が望ましく,O型の指導者の下にはB型の部下が望ましく,B型の指導者の下にはA型の部下が望ましいと考えています。(血液型の特徴と,組織編制「血液型から考える組織編制」参照)
奥州藤原氏の歴史は,藤原経清から藤原秀衡の時代まで,B型からA型への流れが形成されており,望ましい形で統治がなされていました。
ところが4代目の泰衡の時代,秩序重視の「A型の時代」から突如,変革を求める「B型の時代」へと変貌しました。その結果,統治の流れが正しく受け継ぐことができなくなり,大した抵抗もできずに崩壊したのだと考えます。
もしも4代目がA型,もしくはO型であれば奥州藤原氏は4代目で滅亡しなかった可能性があります。
但し血液型の組合せ上,O型の息子は生まれないため,4代目を継ぐのは「A型」もしくは「AB型」の息子でした。その場合,「A型」の政策を踏襲することになるわけですが,源平合戦が幕を下ろし,当時は変革が求められていた時代であったため,「A型」を踏襲しただけでは変化が生まれず,結局は「A型」が跡を継いでも滅亡を先延ばしにしただけだったと予想します。
ここで述べた内容について,次回は藤原清衡の父経清の時代から,血液型と照らし合わせながら検証,考察していきます。
参考文献
- 『奥州藤原氏四代』(人物叢書 新装版) 高橋 富雄 著 (吉川弘文館)
- 『中尊寺と藤原四代』(朝日新聞社編)
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