【OAHSPE考察6】血液型から見る奥州藤原氏(4代)の歴史 (2)

藤原経清について(略歴)

天慶2年(939),関東で平将門を始めとする大規模な反乱が勃発しました。この反乱は平将門が新皇を名乗り,関東の各地の国司を指揮下に加えて中央政府からの独立を狙ったものであり,当時の中央政府(朝廷)を震撼させました。
この関東に端を発した激震に対して,関東の地場の豪族であった藤原秀郷は,平将門と長年敵対していた平貞盛と手を組んでこの反乱に立ち向かい,天慶3年(940),平将門を討ち取ることに成功しました。
朝廷はこの功績をよみしました。
奥州藤原氏の始祖清衡の父経清つねきよは,藤原秀郷の後裔であると言われています。藤原経清は,当時陸奥の俘囚長と呼ばれていた安倍頼時の娘有加一乃末陪ありかいちのまえめとり,その婿として奥州に詰めていました。
当時,朝廷は奥州の支配権を安倍氏から奪おうとしており,それにあらがう形で永承6年(1051),安倍頼時は朝廷との戦いに踏み切り,前九年の役と呼ばれる戦役が勃発しました。
この前九年の役は,勝者の側から描いた『陸奥話記』では,朝廷からの徴税を拒んだ安倍頼時が戦端を開いたように記されていますが,敗者の側から描いた『東日流外三郡誌』では,もともと津軽を始めとする東北地方の北部(現在の青森県,秋田県,岩手県)は荒吐あらばき王が各地の諸部族を統率して古代から治めてきた地であるにも関わらず,朝廷が徐々に圧力を強めてきたので,当時荒吐王の後裔として統治していた安倍頼時が朝廷との戦端に踏み切らざるを得なかったとしています。
この時,反乱鎮定のため,朝廷から陸奥国に派遣されたのが源頼義でした。源頼義は陸奥守に叙任され,この反乱の鎮圧を朝廷から託されると,安倍頼時と友好関係を築き,この騒動を平和裏に終息させました。
ところが源頼義の陸奥守任期が終わりを迎えた時,安倍頼時が朝廷の官人を襲ったため,源頼義はそのまま在任し安倍頼時の討伐に踏み切りました。このタイミングで安倍頼時が朝廷の官人を襲う理由はないため,これは源頼義の策謀であることは明白ですが,戦いを仕掛けられた安倍頼時の方も今度ばかりは妥協できないと考え,徹底抗戦の構えを見せました。
この時,安倍頼時の婿であった藤原経清は,同じく安倍頼時の婿であった平永衡と共に源頼義に味方しましたが,源頼義が平永衡を謀殺すると,藤原経清は身の危険を感じて安倍頼時に寝返り,前九年の役が終わるまで源頼義の敵として戦い続け,戦後は捕らえられ,処刑されました。

藤原経清と安倍頼時の血液型(推定)

藤原経清の血液型ですが,息子の清衡はAB型であることは判明しているため,O型以外の血液型となります。

経清の生涯は状況に応じて立場を変化させていたことから,B型の特徴が色濃く出ていると思います。
一方で安倍頼時は,前九年の役の戦端を開いたとはいえ,やむを得ない状況がそうさせたことを考慮に入れると,秩序を重んじるA型の影響が感じられます。

源頼義,義家父子の血液型(推定)

源頼義の血液型を推定する前に,その手掛かりとなる嫡男の義家の血液型を推定します。
源義家は父頼義と共に前九年の役を戦いました。頼義は陸奥守の任期切れが迫ると,政変を故意に創り出して引き延ばしましたが,前九年の役における戦功を朝廷から讃えられましたが,後三年の役を鎮定した義家は,特に父頼義のように政変を故意に創出しませんでしたが,後三年の役を朝廷から私闘とみなされて何の恩賞も得られませんでした。この時,源義家は自分と共に戦った配下に対して,自分の所領を分け与えて報いたと言います。
この律儀な性格は,規律や秩序を重んじるA型の特徴が色濃く出ています。
この他にも義家が朝廷から恩賞を得られなかった原因に,もう一つのA型の人間の難儀な点がありました。それは,A型は官僚組織内の上層部から煙たがられる傾向にある点です。利権の温床になっている組織内の上層部にとって,規律や秩序を口やかましく唱えてくるA型は一言で言えば「鬱陶しい」存在だったからです。
源義家が仮にA型であったとすると,後三年の役で戦功を立てても朝廷から恩賞を貰えなかったのはその血がもたらした結果であると思います。

一方で,狡猾な策謀で前九年の役を引き起こした源頼義は朝廷から恩賞が下賜されました。義家は恩賞が貰えず,策謀を巡らした源頼義の方が朝廷から恩賞を貰えたのは,頼義の血液型がO型の特徴を持っていたからだと推測します。
O型には協調,調和を重視する特徴があります。そのため組織の上層部の受けは良く,これが頼義が評価されたからではないかと推測します。

後三年の役について

前九年の役で安倍頼時と戦った源頼義は,奥州の俘囚の一人,清原武貞を味方に引き入れました。戦後,奥州の俘囚長は清原氏が務めることになり,藤原経清の妻有加一乃末陪は清原武貞に再嫁し,家衡いえひらを儲けます。
清原武貞の死後,家督を継いだ息子の真衡さねひらは権力の集中を図って同族と争うようになります。
永保3年(1083),清原真衡は叔父の吉彦秀武討伐を決めた時,真衡の異母弟家衡と,家衡の異父弟清衡を誘って真衡に対抗します。
こうして後三年の役の戦端が開かれました。
清原武貞の代では起きなかった内訌が,息子の真衡の代で勃発したのは,真衡が権力の集権化を図ったからでした。このような権力の集権化は,秩序を重んじるA型の特徴が色濃く出ています。
真衡の父武貞の頃はこういった内訌が生まれていないため,武貞の頃は弟の吉彦秀武と協調できていたものと思います。それが息子の真衡の代で組織化を口やかましく唱えたため,一族が反発したのだとすると,清原武貞には,協調や調和を重んじるO型の特徴があり,それが息子の代になりA型の特徴に変わったため,内訌が勃発したのではないかと推測します。

やがてこの内訌を鎮定するため,源義家が陸奥守として赴任します。清原真衡は吉彦秀武の討伐に乗り出したものの急死したため,源義家は清原氏の遺領を家衡いえひらと清衡の2人に分け与えます。
これに不満を唱えたのは家衡でした。家衡は清原一族の所領を,清原一族でない異父兄の清衡が受け継ぐことが許せず,ついに清衡討伐に踏み切りました。
これに激怒したのは源義家でした。家衡が義家の裁定に従わなかったからです。
義家は清衡と共に後三年の役を戦い,ついに家衡の討伐に成功し,この反乱を鎮定しました。しかし朝廷はこの戦乱を私闘と見做したため,戦後,義家は恩賞が下賜されず,清衡は俘囚の長としての地位を手に入れ,奥州藤原氏としてこの地に君臨しました。

前九年から後三年の役までの俘囚の長を,血液型という視点で見ていくと下表のようになります。

名前血液型略歴(要点)血液型が及ぼした影響
安倍頼時A?前九年の役の首謀者
清原武貞O?前九年の役で源頼義の調略に応じる。
戦後,一族内をまとめる
A型(秩序)からO型(調和)へ。
順当な政権交代。
清原真衡A?権力基盤の強化。同族内での内訌勃発O型(調和)からA型(秩序)へ。
逆行。
清原家衡A?異父兄清衡との内訌。A型(秩序)
真衡からの流れ(内訌)は継続
藤原清衡AB後三年の役に勝利し,奥州藤原氏の
始祖となる
B型(変革,変化)
清原武貞(O型)からB型(変化)へ
平和の到来

血液型から見る藤原清衡について

藤原清衡は前九年の役から後三年の役まで,戦乱の渦中にいました。この激動の時代を清衡が生き抜くことができたのは,AB型という血液型が幸いしたと思います。

前九年の役後,母有加一乃末陪が清原武貞の下に再嫁した時,清衡は連れ子として武貞の下で暮らしました。

武貞には連れ子の清衡の他に,長男の真衡(A型?),次男の家衡(A型?)がいましたが,連れ子の清衡(AB型)の方が相性としては実子よりも良かったと思います。

AB型は,A型とB型のどちらの特徴を色濃く出すかで判断が分かれますが,この時の清衡はB型の特徴が色濃く出ていたのだと思います。そのためO型の武貞とは相性が良く,清衡は連れ子でありながら,まったく血の繋がっていない義父武貞から愛され,そのまま清原武貞の息子という扱いで遇されました。

清原武貞の死後,義兄真衡(A型)が強権を発動し,異父弟家衡(A型)と協力して戦います。B型の特徴があった清衡は,A型の真衡の下に付くことを良しとせず,史実でも徹底抗戦しました。

兄清衡(AB型)と弟家衡(A型)は,真衡との戦いの間は良好な関係を保っていました。B型の特徴を有した清衡が兄として上の立場にあったため,A型の弟家衡はその風下につくことに抵抗感がなかったからです。

ところが真衡の死後,家衡が家督を主張するようになると,急に清衡との関係が悪化しました。上下の関係が逆転したため,A型の弟家衡がB型の特徴を有した清衡の風下につくことを嫌ったからです。

清衡は源義家の協力を取り付けると,家衡を討滅し,俘囚の長としての地位を手に入れました。
この時,吉彦秀武などの他の清原一族が抵抗しなかったのは,O型の清原武貞の流れを,B型の特徴を有した藤原清衡が上手く受け止めることができたからだと思います。

組織を健全な状態で継続させるには,時代の流れを読みながら,その組織を率いる者もその流れに沿った形で血を受け継いでいく必要があります。
藤原清衡の死後,息子の基衡(A型)が跡を継ぎますが,これも血の継承という点では理にかなっていました。
奥州藤原氏が3代に亘って平和を保ち,繁栄を謳歌できた一因には,理想的な血の継承が行われたこともあります。

この『血の継承』が途絶えた時,崩壊が訪れます。次は3代目藤原秀衡(AB型)と4代目藤原泰衡(B型)について考察していきます。

参考文献

  • 『奥州藤原氏四代』(人物叢書 新装版) 高橋 富雄 著 (吉川弘文館)
  • 『中尊寺と藤原四代』(朝日新聞社編)

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