【OAHSPE考察6】血液型から見る奥州藤原氏(4代)の歴史 (3)

2代目藤原基衡について(略歴)

初代清衡が大治3年(1128)に亡くなった後,息子の基衡が跡を継ぎましたが,その間には息子同士の跡目争いがあり,その戦いに勝利してのことだったと言います。
家督継承後,基衡は朝廷に対して強圧な態度で臨んでいました。白河法皇の近臣の一人宗形師綱が陸奥守として下向し,領内の公田の検注(田畑や屋敷地等の調査,記録)を行おうとした際,基衡はその地の代官であった季春という者に命じて威嚇の意を込めて戦わせたところ,宗形師綱はこのことを上申し,基衡は朝敵となるところまで事態は悪化しました。この時,基衡は季春に詫びながらその身を差し出して事態を収拾しましたが,それ以降は朝廷に強圧的な態度で臨むのではなく,逆に朝廷の支配体制の中でうまく立ち回ることで利権を確保する道を選びます。
摂関家の藤原頼長が父の関白藤原忠実から陸奥の所領を譲られた時,頼長が陸奥の年貢の増徴を図りましたが,基衡はそれを武力で解決せず,粘り強く交渉して半額まで相手の要求を下げさせました。
このように2代目基衡の時代は,既存の支配体制の中で立ち回ることを余儀なくされており,それが自身のA型(秩序)の血とも相性が良かったため,その治世は特に大きな混乱もなく平和を享受し,保元2年(1157)または翌3年(1158)に亡くなりました。

3代目藤原秀衡について(略歴)

3代目藤原秀衡は,朝廷の支配体制の中でうまく立ち回りして利権を確保する父基衡の路線を踏襲しました。しかし時代は戦乱の世へと突入しており,中央では保元の乱(1157),平治の乱(1159)が勃発し,新たな時代への適合が必要になっていました。
こうした中で,藤原秀衡は平治の乱の首謀者の一人藤原信頼の兄基通が陸奥に配流されると,その娘をめとりました。この婚姻が後押するように,秀衡は鎮守府将軍に任命され,奥州の支配者として朝廷からも認められるようになりました。

しかし時代は貴族から武士の時代へと移行しており,朝廷は平清盛が台頭し,その息がかかった平家一門が貴族化して専横を極めるようになっていました。これに反感を抱いた後白河法皇を始めとする平家以外の貴族は平家打倒を掲げて陰謀を企てるようになりました。

治承元年(1177)には鹿の谷の変が勃発し,後白河法皇とその近臣が処断され,治承4年(1180)には後白河法皇の第3皇子以仁王が打倒平氏を掲げて全国の武士を決起させるべく挙兵しました。これに各地の武士,特に平家の対抗馬として目された源氏方の武士が一斉に武装蜂起し,源平合戦が幕を開けました。
かつて前九年後三年の役を戦った源義家の後裔は源氏の棟梁家となっていましたが,保元平治の乱で没落し,義家から4代後裔の源頼朝に至っては平治の乱で捕縛され,伊豆国の配流され,20年近く罪人生活を送っていました。
源頼朝の弟義経も幼いながらも平治の乱で捕縛され,鞍馬寺に入れられ僧侶の道を歩まされていました。しかし義経はそこから脱走して奥州に下り,藤原秀衡の下で庇護されました。
このように時代が混沌を極める中,藤原秀衡は中立の立場を貫いていました。しかし時代は秀衡にその立場に甘んじることを許そうとせず,庇護していた源義経が挙兵した兄頼朝の下に奥州から駆け付けたりするなど,否が応でも戦乱の渦中に身を投じさせようとしていました。
源平合戦は源頼朝の卓越な政治手腕と,義経を始めとする源氏方の武士の各地での勝利が決め手となり,元暦2年(1185)に平家が壇ノ浦で滅ぼされると,今度は源頼朝が武士の時代を築くため,後白河法皇と対立し,源義経は後白河法皇の一派として頼朝と対峙しましたが敗れ,再び奥州に下り,藤原秀衡の下でかくまわれました。
秀衡は源義経の保護をしつつ,源頼朝から義経の身柄の差出を要求されてもそれを拒み続けていましたが,文治3年(1187),亡くなりました。

4代目藤原泰衡について(略歴)

4代目藤原泰衡は,父秀衡が抱えていた源義経という爆弾をどのように処理するかが当面の課題でした。
秀衡は泰衡に対して「義経を大将にして,泰衡や国衡は結束して事に当たるように」と遺言したと言いますが,泰衡はその遺言を破り,文治5年(1189),まず源義経を襲撃して殺害し,続いてそれに異論を唱えた弟忠衡を殺害するなど,結束するべき時に逆に内訌を起こしてしまいました。

その結果,源頼朝の侵攻を受けた時,泰衡は組織だった抵抗を見せることができず,平泉は陥落し,泰衡は奥州の北の方に逃れたものの,家来に裏切られて殺害されました。
こうして奥州藤原氏は滅亡を迎えました。

血液型から見る藤原基衡,秀衡,泰衡の治世について

初代清衡(AB型)は激動の時代の中,波乱の生涯を送りました。最終的には勝者となったものの,その生涯はまさにB型(変化)の特徴が現れていました。
息子の基衡(A型)は父清衡の路線を当初は踏襲して兵事による解決を好んでいましたが,やがて朝廷の支配体制の中で生き抜く道を取りました。
3代目秀衡(AB型)も父基衡の路線を踏襲していました。ところが時代は平和から戦乱へと向かっていました。秀衡は臨終の際,「義経を大将にして,泰衡や国衡は結束して事に当たるように」と遺言したと言います。秀衡は次代は「協調」の器量を持った人物が当主となるべきだと感じていたことがこの遺言からも読み取れます。
しかし4代目となった泰衡(B型)の性質は協調ではなく「変化」であったため,無駄に内訌を作り出し,自滅に近い形で滅亡しました。

名前血液型略歴(要点)血液型の影響時代
藤原基衡A朝廷との確執。
後に朝廷の支配体制の中で利権確保の道を採る
A型(秩序)平和
藤原秀衡AB父基衡の路線を継続。
しかし時代は戦乱の世へ向かう。
源義経を庇護するも,中立の道を継続
A型(秩序)平和から戦乱へ
藤原泰衡B父の遺命に背き,源義経や弟を誅殺。
すぐに源頼朝に討伐され滅亡。
B型(変化)武士政権の樹立

組織の未来を予測することは可能か否か?

奥州藤原氏は,戦乱を生き抜いた初代清衡の「B型(変化)」から,2代目基衡,3代目秀衡の「A型(秩序)」を通して,次に求められた「O型(協調)」の人材が不在であったため,滅亡を余儀なくされたのだと思います。
このように見ていくと,組織の盛衰は,組織が持つ「血の継承」も重要な要素であり,それが時代の潮流の節目で正しく切り替われるかという点も考慮に入れて行く必要があります。
こうした様々な要素をパラメータとして考慮できれば,組織の未来を予測することは可能ではないかと考えます。

OAHSPEでは,こういった予測シミュレーションを専門に行う神々がいます。こうした神々は数学者という立場で予測し「予言」します。

数学者たちはどのような大都市や大国家が誕生し,どの国がどの国と戦い,どの大都市が滅び,どの山が星雲の落下で削られて剝き出しになり,人々の記憶から消され失われてしまうのかを預言しました。
数学者たちは,偉大なるジェホヴィの御手により,廃墟の町が発見され,スイスsu’isによって人間の歴史が解明された時,コスモンの時代が到来するだろうと預言しました。

    OAHSPE-4『センタンテスの書』9章-13

    今回,血液型がはっきりと分かる奥州藤原氏を題材に,血液型という視点で組織の興亡を見てきました。
    組織とは人間と同じように有機的な生命体のようなものであり,奥州藤原氏の時代を見ていくと,組織にも「血」が通っているのだということが感じられます。
    その組織に血を注いでいるのは,その組織に関わっている人々であり,その組織が求めている血が与えられない時,奥州藤原氏のように滅んでしまいます。
    こういった要素をつまびらかにしていくことで,組織の未来を予測シミュレートすることが可能になっていくのだと考えます。

    参考文献

    • 『奥州藤原氏四代』(人物叢書 新装版) 高橋 富雄 著 (吉川弘文館)
    • 『中尊寺と藤原四代』(朝日新聞社編)

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