慕韓(馬韓)滅亡の原因について

475年,百済滅亡後の朝鮮半島南部の情勢

 475年,百済は高句麗・長寿王の侵攻により滅亡しました。(百済滅亡の経緯は[475年に百済が滅亡した経緯と原因について]を参照)
 百済・蓋鹵けろ王は滅亡時に殺害されましたが,子の文周王子が南に逃れたといいます。

蓋鹵王は子の文周にこう言った。
「予は愚かで人を見る目がなく、姦人の言葉を信用して今日の状況を招いてしまった。民は傷つき、兵は弱まり、国家の危機に際して予のために戦ってくれる者などいようはずがない。予は社稷とともに命運を共にしようと思うが、そなたはここで死んでも無益である。どうか難を避けて国王の系譜を絶やさぬようにしてもらいたい。」
 そこで文周は木劦満致(ぼくきょうまんち)祖彌桀取(そびけつしゅう)と共に南に行った。

『三国史記』百済本紀・蓋鹵王二十一年

 本来,百済はここで社稷が途絶えたはずでしたが,『日本書紀』によれば倭国の雄略天皇(倭王武)は文周王子に久麻那利(くまなり)(熊津。韓国・忠清南道公州市)の地を下賜し、百済国を再興させたといいます。

(雄略天皇)二十一年(476年)春三月、天皇は百済が高麗によって破られたと聞くと、久麻那利を汶洲(もんしゅ)王(文周王)に下賜し、その国を再興させた。 
 時の人は皆、こう言った。
「属国の百済国は滅亡し、倉の下で集まって嘆いていたが、天皇のご尽力によりその国は見事に再興された」

『日本書紀』巻十四・雄略天皇二十一年三月

『日本書紀』の記述が史実であれば,という前提になりますが,雄略天皇が下賜した熊津(和名:久麻那利)は慕韓の地であったと思われます。朝鮮半島南部はもともと三韓(馬韓,弁韓,辰韓)があり,馬韓は倭王済の頃は慕韓と呼ばれていました。『日本書紀』の「下賜」という言葉が正しいのであれば,この地は倭国が庇護していた慕韓の一部だったということになります。
 476年,文周王子は熊津を国都に定めて即位し、漢江以北の遺民を熊津に集めました。(『三国史記』百済本紀・文周王二年二月)

 この時,倭国に仕えていた琨支王子も帰国しました。(『三国史記』百済本紀・文周王二年二月)
 琨支王子は蓋鹵王の弟であり,461年に木梨軽天皇の御代に池津媛(百済・適稽女郎)が姦通の罪で処刑された後,代わりの人質として来倭しました。余談になりますが,この時,蓋鹵王の妃が琨支王子に下賜されましたがこの妃は既に身籠っており,倭国に向かう途中の筑紫の島で男児を出産しました。この男児は後の百済・武寧ぶねい王になります。武寧王は慕韓滅亡で険悪となった倭国との関係を修復し,百済最盛期を実現することになります。
 しかしこの時点では百済と倭国の関係は良好であり,雄略天皇は百済を滅亡に追いやった高句麗と雌雄を決する思いを募らせていました。そこで手始めに朝鮮半島南部の安定のため,倭国は476年,477年にわたり2度の新羅征討を行いました。しかしこれはどちらも成果を上げられませんでした。(『三国史記』新羅本紀・慈悲麻立干十九年,二十年)
 それでも倭国は高句麗との対決のため,南朝宋に遣使し開府儀同三司の仮除授を要求しました。「開府儀同三司」の「儀同三司」とは三司(三公。漢代の司徒、司馬、司空)相当を意味し,三司には開府(幕府を開く権利。府とは古代将帥が出征するための軍本営)の権限があります。倭国はこの権限を得ることで大義名分のもと高句麗と雌雄を決しようとしていたのではないかと考えられます。
 この時の倭国の使者は,身狭むさし青と檜隈ひのくま博徳はかとこの二人でした。『日本書紀』によればこの2人は雄略天皇に寵愛されていたといいます。
 478年,この2名は宋・順帝(劉準)に拝謁し,倭王武の上表文を披露しました。

 宋・順帝の昇明二年(478年)、倭国から派遣された使者が次のように上表した。
「わが国は残念ながら遠く、藩屏は宋の外にあります。昔から代々の王は自ら甲冑を着て跋渉(ばっしょう)(=山を越え、河を渡る)したため、遑寧(こうねい)(=暇があり平安)でありませんでした。
 東方の毛人を制圧すること五十五国、西の衆夷を服従させること六十六国、海を渡って平定すること九十五国。王道は行き届き、これらの国々と融合し安泰しています。領土は広範に及び、国境は王城から遥か遠くにあり、代々宗主国(=宋国)に時を措かず朝貢してきました。臣は愚かにございますが、恐れ多くも先代の偉業を継ぎ、国家を統治することになりました。そこで百済を経由して再び天朝に帰順しようと思い、舫船(もやい)(=船を岸に繫ぎ止める)を用意していましたが、あろうことか高句麗が非道にも周辺諸国を併呑し、略奪を働き、殺害してやみません。
 このような事情により稽滞(けいたい)(=滞る)しているのです。また順風に恵まれませんでした。仮に船を出航させたとしましょう。運が良ければ辿り着きますが、悪ければ辿り着けません。
 臣の亡父・済は天朝への行路を壅塞(ようそく)(=塞ぐ)する寇讐(こうしゅう)(=かたき。高句麗国)に憤慨し、百万の弓弦で討伐しようと決意しました。この正義の声に多くの者は感激し、まさに大挙して高句麗を征伐しようとしていた矢先、父兄を突然亡くし、後一歩のところで成功を逃し、一簣(ひともっこ)も得られませんでした。やむなく諒闇(天子の喪中)に服し兵を動かさず、偃息(えんそく)(=休む)していたため勝利を収められずにいましたが、代わりに今まで練兵し武器を鍛造してきました。父兄の志を申し上げるため、義士虎賁(こほん)(=勇士)は文武のいずれにおいても功績を立てて、白刃を交わそうとも後ろを振り返らず前進するのみです。仮に覆載(ふくさい)(=天が万物を覆い、地が万物を載せる)の如き帝徳のお陰でこの強敵を粉砕し、靖難(せいなん)(=国難を救い、平和にする)することが叶いましたら、臣は先代の功績に泥を塗らずに済みます。
 そこでお願いがあります。臣を仮の開府儀同三司にご任命ください。また他の者にはそれぞれ仮の官職をお願いします。そうすれば今後もさらなる忠節を励みます」
 宋・順帝は、武を使持節・都督倭、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王に叙爵するとの詔書を下した。

『宋書』巻九十七・夷蛮伝

 雄略天皇(倭王武)の上表文は当然のように宋・順帝に拒否されました。しかしこの時,順帝は権臣・蕭道成(南朝斉の建国者)の傀儡であったため、実際に沙汰を下したのは蕭道成です。
 蕭道成は倭国の使者(身狭青と檜隈博徳)の帰国の際,返礼使を同行させました。この返礼使は翌479年に住吉津に到着したといいます。(『日本書紀』巻十四・雄略天皇十四年一月十三日)
 この年,宋・順帝は蕭道成に禅譲後,殺害され,南朝宋は滅亡しましたが,雄略天皇の上表文に対応したのが次の王朝の建国者である蕭道成であったため,倭国との関係性は南朝斉に代わっても変わりませんでした。
 変わったのは倭国の方でした。倭国は蕭道成が建国した南朝斉に一度も遣使していません。その理由は,雄略天皇の崩御後,倭国は皇室の権威が低下していき,外征に手が回らない状況になっていったからです。
 これが慕韓滅亡の遠因となりました。

480年代の朝鮮半島南部の情勢

 百済滅亡後,百済・文周王は倭国の支援のもとで一歩ずつ再興の道を歩んでいました。ところが477年,文周王は家臣の手にかかり暗殺されました。
 文周王の薨去後,長子の三斤王が即位しましたが,在位3年で薨去しました。
 三斤王の薨去後,雄略天皇は,琨支王子が倭国に残した5人の王子の中から最も秀でていた末多王子を百済王として即位させました。

 二十三年(479年)夏四月、百済・文斤(もんこん)王が薨じた。昆支王子の五人の子供の中で第二王子の末多王子が幼くして聰明であった。そこで天王は末多王子を内裏に呼び、直接頭を撫でて、その国の王となるように詔勅を下し、武器を下賜し、筑紫国の五百人の兵士に護衛させて百済国に送り込んだ。
 これが東城王である

『日本書紀』巻十四・雄略天皇二十三年四月

 百済・東城王の即位と同じ479年,雄略天皇が崩御し,皇太子の白髪皇子(清寧天皇)が即位しました。
 同じ頃,新羅国でも慈悲麻立干が薨去し、長子の炤知麻立干が即位しました。
 百済,新羅,倭の三国はいずれも世代交代が行われましたが,高句麗は依然として長寿王の治世が続いていました。
 歴戦の長寿王は若輩の炤知麻立干が治める新羅に狙いをつけました。
 これが新たな戦乱の火種となりました。
 その頃,新羅は倭国と対立しており,当然ながら倭国傘下の百済,加羅とも対立していました。しかし即位まもない新羅・炤知麻立干は危急存亡の秋を感じ取り,外聞を顧みず,百済,加羅に救援要請しました。(『三国史記』新羅本紀・炤知麻立干三年三月)
「唇亡べば歯は寒し」という言葉があるように,敵対していても百済,加羅にとって新羅が滅亡すると次は自分たちが高句麗に攻められることは分かっていました。そのため当然のように新羅救援に動きます。
 この動きに倭国はどう対応したのでしょうか?
 倭国の選択は新羅との対立路線の継続でした。その結果,百済,加羅は倭国と立場を異にしてしまい,朝鮮半島南部はさらなる混乱に陥りました。

倭国が新羅との対立路線を継続した理由

 479年に雄略天皇が崩御された後,倭国にとって予想外の出来事が起きていました。それは480年,第一皇子の白髪皇子(清寧天皇)が即位した後,僅か2年で崩御されたことでした。
 清寧天皇は『日本書紀』によれば在位5年(484年)に崩御と記されていますが,実際は在位2年で崩御したと考えています。
 その根拠は『日本書紀』の次の記事にあります。

二年(480年)春二月、天皇は子がいないことを残念に思い、大伴室屋大連を諸国に派遣し、白髪部舍人、白髪部膳夫(かしわで)、白髪部靫負(ゆげい)を置いた。御名を冠した形見を残すことで、後世に天皇の御名を伝えようと思われたのである。

『日本書紀』巻十五・清寧天皇二年二月

 清寧天皇の母は韓媛といい,安康天皇を弑殺した眉輪王を匿って殺された葛城円大臣の娘です。
 韓媛は安康天皇の崩御後に雄略天皇の妃となりました。安康天皇の崩御年は461年以降なので,清寧天皇が即位した時はまだ20歳を迎えていませんでした。
 20歳に満たない若者が在位2年目で「自分の形見を残したい」と述べているのは,死期が迫っていたからだと考えるのはあながち間違いではないと考えています。
 それでは『日本書紀』は何故,清寧天皇の在位年数を2年ではなく5年としたのでしょうか?
 それは清寧天皇の崩御年を在位5年目(484年)に引き伸ばすことで,飯豊青皇女の治世を抹殺したかったからです。
 飯豊青皇女は履中天皇の皇女です。『日本書紀』は飯豊青皇女の即位について何も記していませんが、崩御については次のように記しています。

冬十一月、飯豊青尊が崩御した。葛城埴口丘陵に葬る

『日本書紀』巻十五・清寧天皇五年十一月

『日本書紀』の原文では、飯豊青皇女の死について「薨」ではなく「崩」の字を使用しています。「崩」は皇帝の死を表記する際に使用される字です。このことから,飯豊青皇女は天皇として遇されていたことが分かります。
 その他にも飯豊青皇女が在位していたことを示唆する記事が『古事記』に残されています。

 清寧天皇は伊波礼(いわれ)(磐余)の甕栗(みかくり)宮にて天下を治められた。この天皇は皇后も御子もいなかった。そのため御名代として白髪部を定めた。
 天皇の崩御後、天下を治める王がいなくなった。そこで次の皇位継承者を探したところ、市辺忍歯(いちのへのおしは)別王(市辺押磐皇子)の妹・忍海(おしぬみ)郎女、またの名を飯豊皇女が葛城忍海の高木角刺(つのさし)宮にて在位した。

『古事記』清寧記・顕宗天皇即位前

 清寧天皇の崩御は群臣にとって青天の霹靂でありました。清寧天皇には弟皇子(磐城皇子、星川皇子)がいましたが,まず清寧天皇ご自身が20歳に満たない若者であったため,他の弟皇子はもっと年若かったと思われます。
 これは平和な時代であれば,若くても弟皇子の即位もありえたのかもしれませんが,高句麗・長寿王が新羅に侵攻し朝鮮半島南部が戦火に覆われたため,若年の皇子を即位させるわけにはいかない状況でした。倭国の群臣は急場を凌ぐ思いで飯豊青皇女を担ぎ出したのだと思います。

 倭国が対応に追われた高句麗による新羅侵攻ですが,まず新羅としては450年に高句麗と断交後,468年に悉直城(韓国・江原道三陟市)を高句麗に攻略されるなど国境線を南に押し下げられていました。このように劣勢を強いられていた状況の中で,さらに高句麗は新羅との国境線を押し込むように侵攻してきたのです。
 481年,高句麗は狐鳴こめい(韓国・慶尚北道青松郡)など7城を攻略し、さらに国都・月城近くの彌秩夫びちつふ(韓国・慶尚北道浦項市)にまで侵攻してきました。(『三国史記』新羅本紀・炤知麻立干三年三月)

  新羅・炤知麻立干は在位3年目の若王であり,政権基盤が固まっていませんでした。そのため敵対していた百済や加羅に救援要請し,百済、加羅と協力して高句麗軍を撃退しました。(『三国史記』新羅本紀・炤知麻立干三年三月)
 このような情勢下であったにも関わらず,倭国初の女帝となった飯豊青天皇は482年,新羅討伐を行いました。(『三国史記』新羅本紀・炤知麻立干四年五月)
 倭国の狙いは,朝鮮半島における存在感を示すことでした。ただでさえ女帝という立場は国際的に侮りを受けやすかったため,強圧的な態度を示しておく必要が倭国にはありました。
 ところが困惑したのは新羅を救援した百済や加羅でした。特に百済や加羅は倭国と敵対するわけにもいかず,『三国史記』には記載がありませんが新羅から手を引いたものと思われます。
 倭国の方針は雄略天皇の外征路線の継続でした。
 飯豊青天皇は在位4年(484年)で崩御しますが,弘計王(顕宗天皇)が即位してもその路線は継続されました。
 弘計王は飯豊青天皇の甥にあたり,父親は市辺押磐皇子です。市辺押磐皇子が雄略天皇に粛正された際,弘計王は兄の億計王とともに庶民に身分を落として難を逃れましたが,飯豊青天皇の即位後,名乗り出ました。長幼の序では兄の億計王が皇太子となっていましたが,弘計王は飯豊青天皇にお目通りするまでの経緯で功績があったため,億計王は自ら皇位を弟に譲ったといいます。
 億計王と弘計王は一度は庶民に身分を落としているため,群臣の支持が得られていない状況でした。そのため飯豊青天皇の政策をそう簡単に変えることはできない状況でした。さらに言えば,庶民出の弘計王を侮る群臣は少なからずおり,皇室の権威は低下し,軍勢を集めたくても群臣が言うことを聞かず,外征に手が回らない状況でもありました。
 そのような倭国の内情を知ったかのように485年,新羅は加羅との国境付近に仇伐城を築き,倭国の版図に対して南進を開始しました。(『三国史記』新羅本紀・炤知麻立干七年)
 倭国の弱体化は,その傘下にあった百済を苦境に追い込んでいました。百済は475年の滅亡後,熊津周辺の領土しかなく,独力では高句麗や新羅と敵対することはできません。そのため倭国や加羅の援助が不可欠でしたが,その倭国が頼りにならないとなると,次の手を打つ必要がありました。
 百済が次に打った手は,新羅との同盟でした。(『三国史記』百済本紀・東城王七年)
 百済のこの動きは,かつて允恭天皇(倭王済)が構築した百済・新羅による三韓(慕韓,弁韓,辰韓)防衛ラインを崩壊させることに繋がりました。

紀大磐の反乱

『日本書紀』によれば,顕宗天皇は在位3年(487年)で崩御されました。
 顕宗天皇の崩御を狙ったかのように,この年,任那で大規模な反乱が勃発しました。

 この年、紀生磐(おいわ)宿禰は任那と共に高麗と交渉し、西の三韓の王となるべく官府を整備し、神聖(かみ)と自称した。任那の左魯、那奇他甲背(なかたかふはい)らの計略を用いて百済の適莫爾解ちゃくまくにげ爾林(にりん)にて殺害した。【注一】
 その後、帯山城(韓国・全羅北道井邑市)を築城して東道を防守し、港を封鎖して兵糧の運搬を妨害し軍を飢餓させた。
 百済王(東城王)は激怒し、領軍・古爾解(こにげ)と内頭・莫古解(まくこげ)らに軍勢を率いさせて帯山を攻撃させた。
 この時、紀生磐宿禰は進軍して迎撃し、胆力・気力十分に敵を撃破し一人で百人に当たる勢いであったが、急に兵がいなくなり力尽きてしまった。
 紀生磐宿禰は大事が成就しないことを悟り、任那から引き上げた。
 そこで百済国は佐魯、那奇他甲背ら三百人余りを殺害した。
【注一】爾林とは高麗の地を指す。

『日本書紀』巻十五・顕宗天皇三年

 紀大磐(生磐)は武内宿禰を祖とする紀氏出身の武将であり,雄略天皇の第一次新羅征討における大将軍・紀小弓の子です。紀小弓の薨去後、新羅征討軍に合流し戦いました。
 当時、任那に赴任していた紀大磐が三韓の王となる野望を抱いたのは、倭国に頼らなくても三韓を維持するためであったと思われます。
 三韓独立を狙った動機は,飯豊青天皇の即位後,倭国が新羅に侵攻したことにあります。
 百済は同盟相手に新羅と倭国のどちらを選ぶかで苦悩していました。同じことが三韓(慕韓,弁韓,辰韓)でも起きていたのです。なお,ここでの三韓は,倭王済が六国諸軍事に任命された際の国名で言えば,弁韓は任那,加羅に該当し,辰韓は秦韓になります。

倭国が頼りになる状況であれば,このような反乱は起きませんでした。しかし倭国では雄略天皇(倭王武)の崩御後,僅か7年で3人の天皇が即位し,皇室の権威は低下しているのは誰の目にも明らかな状況でした。おみ姓の一豪族にすぎない紀大磐の個人的な野望だけではこれほどの大反乱は起こせません。任那の在地領主の協力もあったことは想像に難くありません。
 この反乱軍は官府を整備し、高句麗と交渉し支援を取り付けると、最初に百済を狙いました。

 紀大磐の反乱は、百済の適莫爾解を高句麗の爾林に誘き寄せて殺害することから始まりました。適莫爾解がどのような職務に当たっていたかは不明ですが、その死後、紀大磐が帯山城を築いていることから推測するに、百済国南方の防衛を担っていたのだと思います。
 その後、紀大磐は港を封鎖し百済国への物資供給を遮断しました。百済には内陸から黄海に注ぎ込む錦江、万頃江、東漢江があり、当時、物資の運搬は陸路よりも水路の方が安全で便利でした。そのためこれらの水運網が利用できなくなると、物資運搬の稼働率は大幅に低下します。特に百済は領土も小さく、自給自足できたとは思えないため、水運を遮断されれば困窮します。
 紀大磐は困窮した百済軍を相手に勇戦しましたが,突如、味方の兵がいなくなったといいます。参加していた任那などの兵が勝手に退散したのか、それとも性格に難のあった紀大磐に兵たちが見切りをつけたのかは分かりませんが、どちらであれ、兵の逃亡により成功が望めないと見ると紀大磐は協力してくれた任那の兵を見限っ勝手に倭国に引き上げてしまったといいます。
 紀大磐に梯子を外された任那の反乱兵は百済の反撃に遭い掃討されました。
 この反乱後、百済・東城王は新羅との同盟を強く望むようになりました。

慕韓滅亡

 488年,倭国では顕宗天皇の崩御後,兄の億計王(仁賢天皇)が即位しました。仁賢天皇は三韓の防衛ラインの再構築もさることながら、その前に王権の強化に取り組みました。その一つが次の逸話が示唆するように不敬罪に対する見せしめでした。

二年秋九月、難波小野皇后は仁賢天皇に対して不敬があったことを恐れて自害した。【注一】【注一】顕宗天皇の時、億計皇太子が宴会の席で瓜を食べようとしたが小刀(刀子(とうす))がなかった。顕宗天皇が小刀を取ってきて小野皇后に渡すように言った。夫人は億計皇太子の前に着くと立ったまま瓜盤に小刀を置いた。
 この日、さらに酒を酌み交わした時、難波小野皇后は皇太子を立ったまま呼びつけた。この時の不敬により難波小野皇后は後難を恐れて自死した。

『日本書紀』巻十五・仁賢天皇二年九月

 皇太后として遇せられたはずの難波小野皇后が、皇太子時代の億計王への不敬だけで自死したというのは過酷な仕打ちです。しかし長らく庶民として暮らし,何も後ろ盾を持たない仁賢天皇にとって恐怖政治で人々の心を押さえ込もうとするのはやむを得ない措置でした。
 このように内政に注力したかった仁賢天皇ですが,朝鮮半島の情勢はそうも言っていられない状況にありました。この時期,朝鮮半島南部は高句麗・長寿王の薨去により三韓を巡る攻防はさらに激しさを増していたからです。
 長寿王は五世紀の朝鮮半島を巡る歴史の主役の一人でした。類い稀な政戦略の手腕を持つ王が平均40歳といわれるこの時代において79年も在位し、高句麗に繁栄をもたらしました。この偉大な王の薨去に北魏・孝文帝は敬意を評して特別に郊外で喪に服したといいます。(『三国史記』高句麗本紀・長寿王七十九年十二月)
 しかしいつの時代も名君の跡を継いだ後継者は苦労するものです。これは長寿王の跡を継いだ孫の文咨王も同じでした。群臣に認められるべく,偉大な長寿王が築いた版図をさらに拡大する必要に迫られていたからです。
 高句麗・文咨王が外征に積極的な姿勢を示したことは、百済・東城王にとって脅威でした。頼みの綱の倭国とは紀大磐の反乱以降、疎遠となっていました。しかも三韓の諸国からは猜疑の目で見られており、援軍を期待できなかったのです。
 百済・東城王が採った策は,新羅との婚姻同盟でした。

十五年(493年)春三月、百済王牟大(むだ)(東城王。『日本書紀』では末多(まちた))が使者を派遣して花嫁を求めてきたので、伊伐飡(新羅国骨品制・第一位)・比智の娘を送った。

『三国史記』新羅本紀・炤知麻立干十五年

 

 百済と新羅の婚姻同盟はすぐに倭国に伝わりました。
 百済抜きの防衛ラインの再構築を迫られた仁賢天皇は、平和に慣れすぎた三韓だけではその実現は難しいことも気づいていました。
 この時,倭国が採った策は高句麗との同盟でした。
 493年、仁賢天皇は高句麗に日鷹吉士を派遣し技能者を招致したといいます。(『日本書紀』巻十五・仁賢天皇六年九月四日)
 百済・新羅の婚姻同盟と同じ年に仁賢天皇が高句麗に日鷹吉士を派遣したのは決して偶然ではありません。仁賢天皇は高句麗に共闘を持ちかけたのです。
 この動きに真っ先に反応した新羅は、臨海、長嶺(場所不明)に築城しました。(『三国史記』新羅本紀・炤知麻立干十五年七月)
 百済・東城王も手を拱いてはなく,婚姻同盟だけでは弱いと思ったのか、494年、今度は新羅に降伏を申し入れたのでした。(『三国史記』新羅本紀・炤知麻立干十六年二月)
 こうして倭・高句麗と新羅・百済による戦いが勃発しました。
 494年,高句麗は新羅,百済への侵攻を開始しました。

(494年)秋七月、新羅の将軍・実竹らが高句麗と薩水(韓国・忠清北道清州市)の野原で戦ったが勝てなかった。そこで退却して犬牙城に篭った。高句麗軍に包囲されたが、百済王牟大が三千の兵を派遣し、包囲を解いた。

『三国史記』新羅本紀・炤知麻立干十六年七月

(495年)秋八月、高句麗は百済の雉壌城を包囲した。百済が救援を要請してきたので王は将軍徳智に軍を与えて救援に行かせた。高句麗軍は潰走し、百済王は使者を派遣して謝辞を述べた。

『三国史記』新羅本紀・炤知麻立干十七年八月

(496年)秋七月、高句麗軍が来襲し牛山城を攻撃した。将軍実竹が出撃し、泥河(江原道江陵市)で撃破した。

『三国史記』新羅本紀・炤知麻立干十七年八月

 高句麗による新羅、百済侵攻が激しさを増す中、497年、倭国もまた新羅に侵攻しました。(『三国史記』新羅本紀・炤知麻立干十九年四月)
 しかしこの情勢下で百済は着実に版図を拡大させていました。
 498年,百済・東城王は独立国であった耽羅島(韓国・済州島)に対して貢納を怠っているという理由で武珍州(韓国・光州広域市)まで進軍しました。この時、耽羅国が謝罪したため征討を中止したといいます。(『三国史記』百済本紀・東城王二十年)
 慕韓の支配域にあった武珍州を百済・東城王が接収しているということから推測するに、百済は倭国の傘下から離脱後、慕韓に侵攻し版図を拡大していたことになります。

 こうして慕韓は百済に吸収される形で滅亡しました。
 慕韓滅亡は,雄略天皇の崩御後,倭国の皇室の権威が低下したことが間接的な原因です。倭国の権威低下により将来に不安を抱いた百済は新羅に鞍替えしてしまいました。これにより戦い慣れしていなかった慕韓は百済の餌食となり,5世紀末には滅亡してしまったのです。

結論

  • 慕韓はかつて馬韓と呼ばれた国家群の総称である。475年に百済が滅亡すると,その一部の熊津を百済再興の地として割譲された。
  • 百済はかつてのように単独で高句麗に抗戦できず,倭国の支援が不可欠であった。しかし倭国は雄略天皇(倭王武)の崩御後,短命の天皇が続いたため皇室の権威は低下し,外征に手が回らない状況が続いた。そのため百済は倭国から新羅に鞍替えした。特にその決断を後押ししたのは,任那で勃発した紀大磐の反乱であった。
  • 百済の裏切りに対して倭国は高句麗と同盟し対抗し,倭・高句麗と新羅・百済による戦争が勃発した。この戦争で百済は慕韓の地を接収し,慕韓は滅亡した。

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