[考察]継体天皇の即位について

武烈天皇の即位と,隅田八幡宮人物鏡の銘文についての考察

 498年,仁賢天皇(第24代天皇)が崩御された時,跡継ぎは小泊瀬稚鷦鷯おはつせわかさざき皇子(武烈天皇)ただ1人しかいませんでした。この時,皇統は履中天皇(倭王讃)の皇統と允恭天皇(倭王済)の皇統が血脈を繋いでおり,仁賢天皇は履中天皇の皇孫でした。

 仁賢天皇の崩御時,允恭天皇の皇孫にあたる星川皇子が皇位を狙って反乱を起こしました。(雄略天皇の子,星川皇子は誰に対して反乱を起こしたのか?
 星川皇子の反乱を鎮圧されましたが,この時,磐城皇子も粛正されてしまったため允恭天皇の皇孫が途絶えてしまい,倭の五王と呼ばれた時代の男系の皇孫は武烈天皇ただ1人という時代になりました。
 問題は他にもあります。即位した武烈天皇が幼すぎたことでした。皇孫が他になく,武烈天皇を擁立せざるを得なかったとはいえ,海外には百済,新羅と敵対する国がいる中で,この状況は倭国にとってかなり危機的な状況でした。

 倭国の天皇はこの時代,大王と呼ばれ,各地の豪族の盟主のような立場でした。その大王を頂点とした連合政権が倭国であったため,大王の権威=求心力の低下は各地の豪族たちの離反を招きかねなかったのです。
 幼い武烈天皇を擁立するということは,連合政権としての倭国の弱体化に繋がるため,早急に何らかの策を講じなければいけない状況だったのです。
『隅田八幡宮人物鏡』の銘文には「日十ひと?大王の年。男弟おおと王が意柴沙加おしさかの宮に在りし時」とあり,まるで大王以外に男弟王という別の王が倭国を統治していたかのように記されています。
 この背景は,日十大王(=武烈天皇)が幼く補佐が必要な状況だったことを考えれば,むしろ当然のことだったことが分かります。
 武烈天皇が即位した時,星川皇子が皇位簒奪を狙って反乱を起こしました。星川皇子の反乱は鎮圧されたとはいえ,まだ幼い武烈天皇は国政を担える年齢ではなく,倭国の皇孫の中で各地の有力な王を摂政の立場で迎え入れる必要がありました。
 こうして迎え入れられたのが男弟王(後の継体天皇)でした。

 

男大迹王(継体天皇)の出自

 継体天皇の出自について『日本書紀』は次のように記しています。

男大迹おおど(継体)天皇【注一】は応神天皇の五世の皇孫にあたり、彦主人(ひこうし)王の子である。母は振媛(ふるひめ)という。振媛は垂仁天皇の七世の皇孫にあたる。天皇の父は振媛の端正な容貌を聞いて近江国高嶋郡の三尾(滋賀県高島郡高島市)の別邸より使者を派遣し、三国(福井県坂井市。旧三国町)坂中井(さかない)【注二】に招聘し妃とされた。その後、天皇を生まれた。

  天皇の幼い頃に父王は薨去された。振媛は泣きながらこう言った。
(わらわ)は今、遠く故郷を離れており、孝養に励むことができぬ。高向
(福井県坂井市。旧丸岡町)の父母の面倒を見ながらこの子を養育しよう」
 天皇は気宇壮大で士を愛し、賢者を礼遇し、寛大で心豊かでいらした。

【注一】またの名を彦太尊(ひこふとのみこと)という。
【注二】中は
という。

『日本書紀』巻十七・継体天皇即位前

 継体天皇(男大迹王)は応神天皇の5世の皇孫と言います。下図に『本朝皇胤紹運録』に記載されている系図を載せます。

 この系図で特筆することは,応神天皇の子,稚渟毛二派わかぬけふたまた皇子の娘,忍坂おしさか大中姫です。忍坂大中姫は允恭天皇の后となり,木梨軽天皇,安康天皇,雄略天皇を儲けています。木梨軽皇子については「倭王興が世子の立場で462年に南朝宋に遣使した理由について」で解説しています。
『隅田八幡宮人物鏡』には,男弟おおと王が意柴沙加おしさか宮にいたことが記されています。意柴沙加おしさか宮は男弟王(継体天皇)の大叔母にあたる忍坂おしさか大中姫の名前にちなんでいることから推測するに,男弟王は大叔母が住んでいた屋敷を王宮として利用していたものと思われます。
 このように見ていくと,継体天皇は允恭天皇の皇孫と血のつながりがそれなりに深いことが分かります。
 しかし継体天皇は最初,武烈天皇の後ろ盾の候補には上がっていませんでした。『日本書紀』によれば,倭国の重臣の一人で,大連おおむらじであった大伴金村は仲哀天皇(応神天皇の父)の皇孫にあたる倭彦王を迎え入れようとしていました。

倭彦王の逃亡

 倭彦王の擁立について,『日本書紀』は次のように記しています。

 二十一日、大伴金村大連が次のように重臣に問いかけた。
「現在、後継者が定まらなければ天下の心を繋ぎ止めることはできまい。昔から今に到るまで、これがもとで禍が起きた。今、仲哀天皇五世の皇孫に当たる倭彦王が丹波国桑田郡にいらっしゃる。試しに兵仗を持ち、衛兵に輿を担がせて迎えを遣わし、擁立して主君として崇めようではないか。」
 大臣大連らはこの言葉に同意し、迎えの兵を丹波国に派遣した。
 この時、倭彦王は遠くから迎えの兵が来るのを見て愕然とし、すぐに山谷に逃れ、消息を絶ってしまった。

『日本書紀』巻十七・武烈天皇八年十二月二十一日

『日本書紀』は,武烈天皇の崩御後,後継者が不在のため,仲哀天皇の5世の皇孫にあたる倭彦王を迎えようとしたが,倭彦王はなぜか消息を絶ったという体で記しています。
 これだけでは倭彦王が消息を絶った理由は分かりませんが,この記述が武烈天皇の崩御後ではなく,仁賢天皇の崩御後の話であるとすると話は違ってきます。
 仁賢天皇の崩御後,雄略天皇の子,星川皇子が皇位を狙って反乱を起こします。(雄略天皇の子,星川皇子は誰に対して反乱を起こしたのか?
 星川皇子の反乱は鎮圧され,仁賢天皇の子,小泊瀬稚鷦鷯おはつせわかさざき皇子(武烈天皇)が即位します。しかしまだ幼かったため,後ろ盾が必要な状況でした。
 大連の大伴金村は仲哀天皇の5世の皇孫にあたる倭彦王に目を付けました。倭彦王の年齢は分かりませんが,世代的には継体天皇の1つ上ではなかったかと思います。
 この当時,倭国は短命の皇統が続いていました。そのため,ある程度年齢が高い方が「王権の安定化」という意味では必要でした。
 しかし星川皇子の反乱の時,磐城皇子など雄略天皇の皇孫はことごとく粛正されたため,倭彦王は大伴金村の迎えの兵を,自分を討伐するために差し向けられた兵と勘違いしたのだと思われます。
 もちろん,当時の倭国の事情を考えればそのようなことは無いのですが,皇位を巡って内訌に明け暮れていた倭国の歴史を振り返ると,そのように勘違いしてしまっても無理はない状況でもありました。

 しかし倭彦王が消息を絶ってしまったため,倭国の重鎮は次の後ろ盾を見つける必要に迫られました。

男大迹王の擁立

 男大迹王の擁立について,『日本書紀』は次のように記しています。

 元年春一月四日、大伴金村大連はさらに相談して言った。
「男大迹王の性格は慈仁に富み、親孝行で知られている。天位を継承するのに相応しいと思う。どうか慇懃にお願いして帝業を盛り立ててもらおうではないか」
 物部麁鹿火(あらかい)大連・許勢男人(こせのおひと)大臣らは口を揃えてこう言った。
「皇孫の中で賢者は男大迹王しかおるまい」
 六日、臣、連の者らを派遣し、節刀を持たせて駕籠を用意し、三国に迎えに上がった。兵仗を持った衛兵が容儀を整えて粛然と前方を警備して進み、突然、三国に姿を現した。
 この時、男大迹王は泰然自若として胡座をかき、陪臣を整然と列席させて帝のように構えた。
 節刀を持った使者らはこの様子を見て敬意を表し、身命を捧げ、忠誠を尽くそうという気持ちになった。しかし天皇はその心をまだ疑っており、しばらくの間、出立しようとしなかった。

『日本書紀』巻十七・継体天皇元年一月四日、六日

 大伴金村は次の候補として男大迹王に白羽の矢を立てました。しかし男大迹王は倭国の使者の口上を受け入れたものの,出立しようとはしませんでした。
 これが意味するところは,やはり倭彦王の時と同じように粛正を怖れていたということです。
 しかし警戒心を強めていた男大迹王もついに出立を決断します。その契機となったのは,倭国の政権内にいた河内馬飼首うまかいのおびと荒籠(あらこ)の知らせでした。

 たまたま迎えの兵の河内馬飼首荒籠(あらこ)とは旧知の仲であった。
 荒籠は密かに使者を派遣し、大臣、大連らが本心で男大迹王を擁立しようとしていることを伝えた。
 男大迹王は二日三夜、様子を見た後、出発した。
 この時、男大迹王はため息を溢しながら、こう言った。
「素晴らしい、馬飼首よ。汝が使者を派遣して知らせてくれなかったら予は天下の笑い者になっていたことだろう。世間の者は、『貴賤を論じるなかれ、ただその心を重んじよ』と言っているが、この格言は荒籠のような者を見落とすなというように聞こえる」
 後に践祚した男大迹王は荒籠を厚賞し、寵遇した。

『日本書紀』巻十七・継体天皇元年一月四日、六日

 倭国政権内部にいた河内荒籠の知らせがあり,男大迹王もようやく警戒心を解くことができました。このまま警戒心だけ募らせて見送っていたら「天下の笑い者」となっていたため,それを回避させてくれた河内荒籠を継体天皇は寵遇しました。
 これが男大迹王擁立に至る経緯です。
 重要な点は,男大迹王の擁立は武烈天皇の崩御後ではなく,仁賢天皇の崩御後の話であることです。さらに仁賢天皇の崩御後,倭彦王や男大迹王が警戒心を強めていたのは星川皇子の粛正があったからです。この2つの事情を紐解かないと,継体天皇の擁立についてはなかなか解釈ができないのではないかと思います。

結論

  • 継体天皇の擁立は,武烈天皇の崩御後ではなく,仁賢天皇の崩御後の出来事。
  • 継体天皇や倭彦王が擁立に対して警戒心を強めていたのは,星川皇子の反乱により雄略天皇の皇孫が粛正されたため

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