任那滅亡とその後の混乱について

倭国の歴史(考察)

任那の歴史(5世紀前半)

 かつて朝鮮半島南部に「任那みまな」と呼ばれた国家群がありました。任那には大小の国がありましたが,その中でも安羅あら国が兄貴分として他の国を従えており,安羅は倭国を盟主として仰いでいたと言います。(『日本書紀』欽明紀5年3月)
 安羅国は5世紀初頭に活躍した高句麗・広開土王の石碑(『広開土王碑』)にもその活躍が記されています。高句麗・広開土王は父,故国原ここくげん王が百済との戦いで命を落としたため,その仇を討つため何度も百済に侵攻しました。百済は倭国と和睦し,倭軍とともに高句麗と戦いました。『広開土王碑』にはこの戦いに安羅国も参加したことが記されています。
 その後,安羅国は任那の一員として活動しており,5世紀半ばの倭王済の時代に最盛期を迎えました。当時,任那は隣国の新羅と対立していました。新羅は倭国と敵対していた高句麗に従属していたからです。しかし450年,新羅・訥祇麻立干とつぎまりつかんは高句麗からの離脱を求めてクーデターを起こしました。これが「高句麗辺将殺害事件」です。(『日本書紀』には雄略天皇8年の記事として掲載されていますが,実際は450年の「高句麗辺将殺害事件」を指しています。詳細は「倭王済が451年に2回目の遣使を行った理由について」を参照)
 この戦いで任那は新羅を救い,新羅は倭国の傘下に入りました。時の倭王済(允恭天皇)は南朝宋に遣使して高句麗撃破という戦功をアピールし,六国諸軍事(倭,新羅,任那,加羅,秦韓,慕韓),使持節しじせつに叙任されました。使持節とは平たく言えば,軍権です。倭国は朝鮮半島南部の五か国(新羅,任那,加羅,秦韓,慕韓)に対する軍権を南朝宋の皇帝から公認されたのでした。
 朝鮮半島南部が倭国の支配圏に収まったこの時期が,任那にとって最も平和を享受できた時期でした。

倭の五王って歴史書にほとんど記録がないけれど,

こうして見ると倭王済の時代が一番安定していたんだね

任那の歴史(5世紀後半~6世紀前半)

 453年,允恭天皇(倭王済)が崩御すると,跡を継いだ皇太子,木梨軽皇子は女癖が悪く,それが原因で百済との関係を悪化させていました。しかし百済は倭国との関係を維持しようと努めたため断交には至りませんでしたが,新羅は違いました。新羅は倭国との断交に踏み切ったのです。
 激怒した倭国は459年,新羅に侵攻し敗北を喫しました。(『三国史記』新羅本紀・慈悲麻立干2年4月)
 任那が平和を謳歌できたのは10年もありませんでした。
 この後,朝鮮半島南部は高句麗,百済,新羅による三つ巴の戦いに巻き込まれるように,慕韓,秦韓,加羅は百済,新羅に接収され,宣化天皇が崩御した翌年(532年)には任那だけが残る状況となっていました。(詳細は「加羅の滅亡について」を参照)
 この後,倭国は任那再建を百済に命じる代わりに,任那を百済に従属させました。しかし百済は任那再建に消極的であり,それどころか実質支配しようと目論んでいました。百済に不信感を募らせた任那は高句麗と共謀し,高句麗軍による百済侵攻を手引きしました。
 高句麗に大きく攻め込まれた百済は倭国に救援を要請し,551年,百済は高句麗国都・平壌の奪取に成功しました。ところが高句麗が滅亡の危機に瀕したことで,今度は高句麗と新羅が同盟を結び百済に共闘するようになりました。
 百済・聖明王は高句麗,新羅との両面作戦で苦境に陥り,554年,新羅との戦いで命を落とすことになりました。(詳細は「554年に戦死した百済・聖明王は何故僅かな手勢で戦場に向かったのか?」を参照)
 百済・聖明王の戦死により援軍を得られなくなった任那は窮地に立たされました。

任那がここまで窮地に立たされたのは,どこに原因があるのだろう?

慕韓(馬韓)を百済に取られたことね。

そのせいで任那は自衛ができなくなり,倭国に救援を要請する回数が増えていったわ。

それは倭国に軍費増として重くのしかかり,

倭国は半ば匙を投げるように任那の防衛を百済に任せるようになったと思うのよ。

謎の「兄弟」年号

 百済は聖明王の戦死後,息子の余昌王子(威徳王)が即位します。『三国史記』は聖明王の戦死後,すぐに即位したと記していますが,『日本書紀』によれば,余昌王子の即位は聖明王の戦死3年が過ぎた557年のこととされています。(『日本書紀』欽明天皇18年3月1日)

 その間の出来事について『日本書紀』は次のように記しています。
 555年,余昌王子は出家しようとしましたが家臣に制止されました。(『日本書紀』欽明天皇16年8月)
 556年,倭国に人質に出されていた恵王子が百済に帰国します。(『日本書紀』欽明天皇17年1月)
 557年,余昌王子は即位しました。(『日本書紀』欽明天皇18年3月1日)

 ところがこの翌年(558年),『年代歴』所収の私年号は「兄弟」年号(558年~563年),「蔵和」年号(559年~563年)が記されており,任那滅亡後の563年まで使用されています。
 2つの年号が使用される状況は、日本国の歴史上、平家に擁立された安徳天皇と源氏に擁立された後鳥羽天皇がそれぞれ別の年号を使用した源平合戦の頃(12世紀末)や、南朝と北朝に皇統が分裂した南北朝時代(14世紀)の頃のように,国内で皇統が分かれ対立した時ぐらいしかありません。
 もう一つ言えば,『隋書』東夷伝には、倭国で兄弟統治が採用されていたことが記されており,それは兄が傀儡であり、弟は必要があれば擁立される独特の政体でした。この先駆けとなったのがこの時期の倭国における「兄弟」年号,「蔵和」年号だとすれば,欽明天皇は群臣の支持を失い傀儡とされ,別の皇子が弟王として即位したことが考えられます。天兄王と日弟王の誕生です。
 群臣は欽明天皇の一連の施策に不満を抱き,任那を全力で支援するため日弟王を擁立したのですが,任那滅亡を食い止めることはできませんでした。これは個人的な推測ですが,558年,欽明天皇は兄弟の皇子とともにこの国難を乗り切ろうとして「兄弟」という年号に改元しましたが,翌559年,群臣は武烈天皇の時,男大迹王(後の継体天皇)が執政していた前例に倣い,弟皇子を日弟王として擁立し,この国難を乗り切ろうとしたのではないかと思います。
 しかし任那滅亡を阻止することはできませんでした。
 

ここまでくると,任那を存続させるには倭軍を常駐させないと無理ですね。

それをしたら,国内の反感を買うのでは?

日弟王が誕生したのはそれが原因かも。

任那滅亡

 562年,任那は滅亡します。『日本書紀』は次のように記しています。

二十三年(562年)春正月、新羅は任那の官家を滅ぼした。【注一】

【注一】ある本にはこう記されている。「二十一年(561年)、任那が滅亡した。任那とは、加羅国、安羅国、斯二岐(しにき)国、多羅国、卒麻(そちま)国、古嗟(こさ)国、子他(した)国、散半下(さんはんげ)国、乞飡(こちさん)国、稔礼(にむれ)国の十ヶ国をまとめて呼称したものである。」

『日本書紀』欽明天皇二十三年

『三国史記』には次のように記されています。

(562年)九月、伽耶が反乱を起こした。王は異斯夫に命じてこれを討伐させ、斯多含(したがん)を副将とした。斯多含は五千騎の先鋒隊となり、伽耶城の栴檀(せんだん)門に押し入り白旗を立てた。城中は恐れおののいてなす術を知らなかった。異斯夫が到着すると、反乱軍は降伏してきた。

『三国史記』新羅本紀・真興王二十三年

『三国史記』の記事には任那ではなく伽耶と記されており,しかも反乱という扱いになっています。しかし倭国は任那は加羅も含めた国家群として認識していました。かつて倭王珍が南朝宋に遣使した際,六国諸軍事を自称していましたが,それは「倭,百済,新羅,任那,秦韓,慕韓」の6か国でした。ところが451年,倭王済に認められた六国諸軍事は,百済の代わりに「加羅」が記されていました。南朝宋は百済を朝貢国として認めていた都合上,倭国の傘下として認めることができなかったですが,その代わりに加羅を加えて数合わせしました。
 このことから,倭国は加羅は任那の一部として認識していましたが,南朝宋は任那と加羅は別として捉えていたことになります。
『三国史記』は一貫して任那を記さず加羅もしくは伽耶として記しています。そのため562年の『三国史記』の記事は「伽耶」とありますが,実は任那のことを記しているのは疑いありません。

『三国史記』は「伽耶が反乱」,『日本書紀』は「任那滅亡」。

これ,どちらが正しいの?

『日本書紀』は「別本」に561年に任那滅亡とあるわよね。

恐らくだけど,「別本」の記載が正しく,561年に任那は滅亡して,

その翌年(562年),任那は反乱を起こして新羅に鎮圧されたのではないかしら。

 任那滅亡後,兄弟統治は再び欽明天皇による一統統治となります。欽明天皇は依然として任那再興を願いますが,ついに叶わないまま,571年に崩御されます。
 この時の遺詔を掲載します。

(571年)夏四月十五日、天皇不予。
  皇太子は外出していたが、駅馬で駆けつけた。
  天皇は寝所に招き入れるとその手をとって次のように詔勅を下した。
「朕の病は重い。後のことはそなたに任せる。そなたは新羅を討ち、任那を再興するように。
 任那とまた夫婦となり、昔のように仲睦まじくなれるのであれば、ここで死しても悔いはない」

『日本書紀』欽明天皇三十二年四月十五日

総論

  1. 任那は5世紀末に慕韓(馬韓)を失ってから孤立化を深め,6世紀には倭国の十分な援軍も得られないまま,百済に従属。
  2. 百済は高句麗,新羅の挟撃を受けて窮地に立たされ,554年,聖明王の戦死後,国力を一気に衰退。
  3. 任那支援とそれに反対する勢力が対立し,欽明天皇と弟皇子による兄弟統治が開始。(任那滅亡まで続く)
  4. 百済の衰退により任那は滅亡の危機に瀕し,562年(または561年),新羅により滅亡。

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