[考察]埼玉古墳群・稲荷山古墳出土の鉄剣銘文から分かること

倭国の歴史(考察)

稲荷山古墳について

 稲荷山古墳は,埼玉古墳群の一つです。(詳細は[埼玉県さきたま史跡の博物館]をご参照ください)
 この古墳群の中で最北に位置し,最初期に築造されたのが稲荷山古墳です。国宝の鉄剣はこの稲荷山古墳から出土されました。
 鉄剣には銘文が刻まれており,今回はこの内容について考察していきます。(銘文については[稲荷山古墳出土鉄剣(Wikipedia)]をご参照ください)

平均寿命から推定する,乎獲居の系譜

 鉄剣の銘文によれば,鉄剣は辛亥の年(471年)に製造されたと言います。この年は倭王武(雄略天皇)が在位しており,代々,杖刀人のおびととして倭国に仕えてきた乎獲居をわけの臣が,先祖の系譜を鉄剣に銘文として刻んだと記されています。
 乎獲居をわけの先祖は意富比垝おおひこと言い,その8代後裔が乎獲居をわけになります。
 当時の人の平均寿命を40歳とし,20歳で子供を生まれたと仮定します。この場合,1世代あたり20年となります。(ちなみに乎獲居をわけは父親の加差披余かさひよの後を継いでから10年目で仮定しています)
 意富比垝おおひこから乎獲居をわけまでの世代ごとの年代は下表になります。

年代(西暦)世代当主役職倭王(天皇)
320~340初代意富比垝おおひこ崇神天皇
340~3602代目多加利足尼たかりすくね足尼すくね(宿禰)垂仁天皇
景行天皇
360~3803代目弖已加利獲居てよかりわけ杖刀人のおびと成務天皇
仲哀天皇
380~4004代目多加披次獲居たかひしわけ杖刀人のおびと神功皇后
応神天皇
400~4205代目多沙鬼獲居たさきわけ杖刀人のおびと応神天皇
仁徳天皇
420~4406代目半弖比はてひ杖刀人のおびと履中天皇(倭王讃)
反正天皇(倭王珍)
440~4607代目加差披余かさひよ杖刀人のおびと允恭天皇(倭王済)
木梨軽天皇
4718代目乎獲居をわけ杖刀人のおびと安康天皇(倭王興)
雄略天皇(倭王武)
稲荷山古墳出土鉄剣の銘文に記載された系譜より推定される年代(表)

初代・意富比垝から乎獲居までの略歴

 乎獲居をわけ意富比垝おおひこを始祖として記しています。意富比垝おおひこは大彦命(崇神天皇が北陸に派遣した将軍の1人)に比定されています。(詳細は[大彦命(Wikipedia)]をご参照ください)
 崇神天皇に仕え,北陸の平定に功績を立てた大彦命が意富比垝おおひことすると,息子の多加利足尼たかりすくね足尼すくね(宿禰)と呼ばれていることから,倭国の重臣として仕えたのだと思われます。
 ところが孫の弖已加利獲居てよかりわけの代になると杖刀人の首となり,役職が下がります。これは降格というよりも分家だったからではないかと思われます。つまり宿禰は弖已加利獲居てよかりわけの兄が継ぎ,弟の弖已加利獲居てよかりわけは兄の推挙で杖刀人(護衛)のおびと(長官)の役職が与えられたということです。
 4代目の多加披次獲居たかひしわけは,新羅征討など朝鮮半島南部に対して倭国が攻勢を仕掛けていた時期に活躍しました。高句麗の広開土王との激戦もこの時代のことであり,多加披次獲居たかひしわけも同族を引き連れて海を渡ったのではないかと思われます。
 5代目の多沙鬼獲居たさきわけも父同様に,朝鮮半島南部での戦いに参戦したものと思われますが,仁徳天皇に代替わりすると戦争は行われなくなります。東晋に遣使したのもこの時期のことです。
 6代目の半弖比はてひは,朝鮮半島南部の支配を強化するため,倭国が積極的に南宋に遣使していた時期に活躍しました。半弖比はてひ自身,倭王の護衛であったため任那に駐屯することはなかったと思いますが,同族の多くは任那に駐屯し,時には新羅と戦ったものと思われます。
 7代目の加差披余かさひよは激動の時代でした。允恭天皇(倭王済)の代に新羅の従属化に成功したものの,跡を継いだ息子の木梨軽天皇が暴君であったため,新羅が離反してしまいます。そのため倭国の重鎮は木梨軽天皇を廃位し,代わりに弟の穴穂皇子(安康天皇)を即位させたのですが,次々と倭王が交替するこの時代,その護衛であった加差披余かさひよの苦労は計り知れないものがあったと思います。
 8代目の乎獲居をわけは,仕えていた安康天皇(倭王興)が連れ子の眉輪王に弑殺される事件に巻き込まれます。護衛の一人として責任を感じていたと思いますが,弟の大泊瀬おおはつせ皇子(雄略天皇)が即位するとそのまま仕え,471年にくだんの鉄剣を製作します。
 鉄剣に金で銘文を刻むというのは,雄略天皇(倭王武)から直接許可されなければ実現できないことでした。なぜならば漢字を扱うことができたのは主に中央の官僚であり,倭国の高官でもない乎獲居をわけに単独で製作できるとは思えないからです。
 このことから乎獲居をわけは雄略天皇に鉄剣に銘文を刻むことを許された人物であり,相応の寵愛を受けていたことが分かります。
 それでは乎獲居をわけはどのような理由で雄略天皇から鉄剣に銘文を刻む許可を貰ったのでしょうか?
 雄略天皇は即位するまでの間,数多くの皇族や大臣を粛正しています。護衛の一人として乎獲居をわけはその粛正劇に加担し,その褒賞としてこの鉄剣が下賜されたのだと思います。

乎獲居のその後

 乎獲居をわけは,雄略天皇の崩御後,息子の清寧天皇に仕えました。しかし清寧天皇の崩御後,顕宗天皇(または弟の仁賢天皇)が即位すると杖刀人の首の役職は解職させられたのだと思います。
 理由は,雄略天皇が即位する際,顕宗天皇と仁賢天皇の父,市辺押磐いちのべおしいわ皇子を殺害しているからです。乎獲居をわけがこの粛正劇に加担しているとすれば,父の仇である乎獲居をわけを顕宗天皇と仁賢天皇が許すはずがないからです。
 身の危険を感じた乎獲居をわけは辞職して武蔵国に隠遁したか,長年の功績という名目で顕宗天皇(または弟の仁賢天皇)に解職させられた上で武蔵国に左遷させられました。

 その後,乎獲居とその一族は北方(東北地方)の民族を相手に戦いを繰り広げたものと思われます。(北方の民族については『東日流外三郡誌』に詳しく記載されています)
 北陸を平定した大彦命を始祖とする乎獲居とその一族はこの地域に土着し,中央政府とのパイプをうまく活用しながら,稲荷山古墳を始めとする大古墳を次々と築造したのでした。
(左写真:稲荷山古墳)


 

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