仁徳天皇の崩御年について
5世紀初頭の倭国の歴史を復元する上で,最も困難なのは高句麗・広開土王と戦った倭の天皇の推定です。その理由は,倭国の天皇が『日本書紀』の記載通りであったとすると,後世『聖帝』と讃えられた仁徳天皇が,何度も敗戦しながらも継戦した倭王になるからです。『高句麗広開土王碑』を読むと,この時代の倭王は聖帝というよりも,軍神の方が二つ名としては相応しいように思います。
軍神として知られるのは,八幡様の名で知られている応神天皇です。応神天皇は,宇佐神宮を総本宮とする八幡社の御祭神としても祀られています。
何度も高句麗や新羅と戦い,敗戦を喫しても継戦できたその能力は,それなりのカリスマ性があったからこそ為せた業です。特にこの時代の倭は倭王を盟主とした連合国家でした。何度も敗北を喫すれば崩壊してもおかしくなかった状況ですが,408年まで戦争を継続していました。これは相当なカリスマ性があったことを物語っています。
本サイトでは,高句麗・広開土王と戦った天皇は仁徳天皇ではなく,八幡社の御祭神の一柱である応神天皇と推測しています。
ところで408年,倭は対馬に軍営を構え,新羅侵攻に本腰を入れていました。(『三国史記』新羅本紀・実聖尼師今7年2月)
問題はこの新羅侵攻を倭が一旦中断していることです。再開されたのは415年です。(『三国史記』新羅本紀・実聖尼師今14年7月)
連年,新羅に侵攻していた倭にとって,この中断はあり得ません。しかし戦争を指導していた応神天皇が崩御したとなると話は別です。なぜなら応神天皇の崩御後,皇太子菟道稚郎子と大山守皇子の間で皇位継承争いが勃発し,それが終息したかと思えば,今度は菟道稚郎子と大鷦鷯皇子(後の仁徳天皇)の間で皇位の譲り合いが始まり,倭王は一時的に空位となっていたからです。
『日本書紀』によれば,仁徳天皇は菟道稚郎子との王位の譲り合いを3年間続けていたとあります。(『日本書紀』仁徳紀・即位前)
409年に応神天皇が崩御し,そこから3年の空位を経た場合,仁徳天皇の即位年は412年となります。
その翌年(413年)に倭は東晋に遣使しています。
息子の履中天皇は421年には在位しているため,仁徳天皇の在位期間はこの間(412年~421年)となります。さらに言えば,仁徳天皇の崩御後,履中天皇と弟の仲皇子の間で皇位継承争いが勃発しているため,421年よりも前に仁徳天皇は崩御しているものと思われます。
ここで仁徳天皇の崩御年を絞り込むための手掛かりとして,次の記事を引用します。
使を倭国に遣わし,白綿十匹を送る。
『三国史記』百済本紀・腆支王14年(418)
この当時,百済は東晋との外交を行っていながらも,倭に従属していました。この時,百済が倭に贈った白綿は真綿とも呼ばれ,蚕の繭から作られたものです。倭では製造されておらず,非常に貴重なものでした。
わざわざ記録に残すほどなので,この年に倭に白綿を贈る理由を考察すると,考えられるのは新たな倭王への贈り物です。裏を返せば,この年(またはその前年)に仁徳天皇が崩御したことになります。
本サイトでは417年を仁徳天皇の崩御年に推定します。理由は,新羅の実聖尼師今の謀殺です。
新羅の実聖尼師今は先代の王子たちの謀殺を企んだ結果,返り討ちに遭って弑殺されます。ただ,先代の王子たちを実聖尼師今が思い付きで粛正するとは思えません。
新羅は当時,倭と交戦状態でした。先代の王子(未斯欣)は倭に人質に出されており,新羅国内に残っていたのは長子の訥祇王子(先代王の王子)であり,仮に訥祇王子を手に掛けたら,倭との関係が悪化し,それを理由に侵攻されるのは明らかでした。
しかし倭の仁徳天皇が崩御し,さらに倭国内で内訌が起きていたら話は別です。倭の介入がないと分かれば,この機会に先代の王子たちを粛正しようと思い立ったとしても不思議ではありません。
こういった理由により,仁徳天皇の崩御年を417年に推定しました。
仁徳天皇の治世は『聖帝の世』に値するのか?
『古事記』や『日本書紀』には,仁徳天皇が高山に登り,国内で炊煙が上がっていないのをご覧になり,3年の間,課役の免除を行った結果,炊煙が満ち溢れたという記述があります。特に『古事記』では,仁徳天皇の治世を『聖帝の世』と讃えています。
しかし本サイトでは,仁徳天皇の在位年は5年程度と考えており,先代の応神天皇の比較するまでもなく,あまりにも短い治世です。
しかもこの間,新羅にも侵攻しており,課役の免除は行っていません。
つまり課役の免除を行っていない仁徳天皇の治世は,『聖帝の世』と讃えるには相応しくないということになります。
しかし炊煙の逸話は全くの偽りでもなく,この逸話は仁徳天皇ではなく,次代の履中天皇(倭王讃)であったと本サイトでは推測しています。
理由は,履中天皇の在位中,驚くべきことに新羅との戦争を一切行っていないからです。特に425年に新羅王子の未斯欣が倭を脱走した時も履中天皇(倭王讃)は報復行為を行っていません。これは外征を行わないという倭の方針があったからだと推測しています。
それ以外に理由を挙げれば,父・仁徳天皇の墳墓(大山古墳)の築造があります。この古墳は国内最大規模を誇っており,これだけの古墳を築造できるのはそれだけ国内に余力があったからに他ありません。新羅への外征を行っていなかったからこそ,これだけの巨大古墳の築造が実現できたのだと思います。
結論を言えば『聖帝』の名に相応しかったのは仁徳天皇ではなく,履中天皇(倭王讃)だったということになります。
仁徳天皇の2人の皇后について
仁徳天皇は最初,葛城襲津彦の娘・磐之媛命を立后させていましたが,『日本書紀』によれば,磐之媛命の崩御後に八田皇女(仁徳天皇の異母妹)を立后させたと言います。(『日本書紀』仁徳紀38年1月6日)
『日本書紀』や『古事記』には,磐之媛命は非常に嫉妬深く描かれています。しかし仁徳天皇の在位年数は5年程度です。その短い在位期間で2人の皇后を立后させるのは最初の皇后(磐之媛命)の崩御と八田皇女の立后が都合よく起こるとは考えられないため,磐之媛命は八田皇女の立后のために犠牲となったのではないかと推測します。
また皇后の格としては,磐之媛命よりも皇族の八田皇女の方が上です。しかし八田皇女には子女はなく,仁徳天皇の崩御後,皇位を争ったのは同母兄弟の去来穂別皇子と仲皇子でした。問題は群臣は仲皇子に付き従ったことです。母皇后の格が同じ場合,群臣が弟の方に付き従うのは考え難いことです。
しかし異母兄弟であり,かつ弟の仲皇子が八田皇女の子であるとすると,群臣が仲皇子に味方するのはむしろ当然です。なぜなら仲皇子は八田皇后の子だからです。
これが仁徳天皇の崩御後に勃発した皇位継承争いへと繋がっていきました。
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