パン大陸水没後,日本に渡ったイスタのイヒン人について
パン大陸水没後,イヒン人は洪水の中,船で各地に渡りました。(参考:パン大陸水没後,日本に上陸したイヒン達の動向について)
各地に散ったイヒン人は1万~2万年で消滅しましたが,その中で日本に漂着したイヒン人はかなり特殊な状況にありました。
『OAHSPE』では,霊魂の救済ができる実体人はイヒン人だけであり,それ以外の人種にはできないと記しています。(OAHSPE-18『主神の第5の書』4章-19)
霊魂との交流ができないイヒン人以外の人種はイヒン人と混血してもその能力を引き継ぐことができず,主神との交流ができなくなりました。それが原因で神が課した法を守れず,特にセムとハムの部族は堕落への道を辿ったと言います。(OAHSPE-18『主神の第5の書』5章-11,12,13)
ところがイフアン人と混血したイヒン人の中でも特殊だったのは,日本に渡ったイェスタでした。彼らはイフアン人に叡智と平和をもたらしたと言います。(OAHSPE-18『主神の第5の書』5章-14)
古代東北地方の歴史について綴った『東日流外三郡誌』について
古代人の失われた歴史について,寛政年間(1789-1801)から文政年間(1818-131)にわたり秋田孝季,和田吉次の2名が編纂した『東日流外三郡誌』があります。
『東日流外三郡誌』編纂の動機となったのは,奥州三春藩を襲った天明5年(1785)の大火により所蔵していた文献が焼失したことにあったと言います。奥州三春藩の藩主は秋田氏と言い,現在の秋田県を中心に割拠していた安東氏の末裔になります。
安東氏は鎌倉時代には執権北条氏の被官としてこの地を治めていましたが,『東日流外三郡誌』によれば,もともと安東氏は津軽地方一帯を支配していたのを鎌倉幕府の支配が及んできたため,執権北条氏の被官の立場になることで実効支配を継続せざるを得なかったと言います。
以下,引用です。
夷国と呼ばれた津軽の国は,日本国の歴史を遠く過去に遡って調べてみようとしても,それは砂浜に金粒を探すのと同じでなかなか見つけだせるものではありません。
『東日流外三郡誌』津軽秋風誌 前述(原本:東日流外三郡誌 1古代篇(上) (東日流中山史跡保存会編 八幡書店 刊))
そもそも夷人とはいったい何者なのでしょうか?日本国に住んだことがない愚かな野蛮な連中とみられていたのか,古き世より征夷将軍によって奥州を討伐してきたことだけが日本の歴史に刻まれていますが,それは日本の国を支配する人々の術策であり,奥州津軽を皇宮の鬼門として怖れ,安倍頼時が欧州で挙兵して以来,朝廷や幕府ではその蜂起を怖れて度重なる重税をかけて再挙させまいとしていましたが,津軽だけは化外の地として長らく征夷の対象から外されてきました。
津軽六郡は内と外とに境界が定められて以来,その領土は京役鎌倉役とに分けられていました。八幡太郎義家に討たれた安倍一族は,貞任の遺児高星丸を擁護して津軽の六郡にその臣下とともに君臨しましたが,その威勢を怖れた幕府は内三郡を幕府領とし,外三郡を皇領とし,その代官の職に当たらせて,安倍一族は初めて官役に登用されたのでした。
しかしながら津軽六郡のうち内三郡を鎌倉に召し上げられて以来,豊かな土地を失い,荒廃した外三郡の地に一族は暮らしを営むことになり,手掛けたことといえば十三浦の開港であり,勅許を得て異国との交易を盛んに行いました。これにより安東一族は六郡の領主であった頃よりも財を得ることができました。
幕府は安東一族の決起を怖れて,さらに十三湊の安倍氏と藤崎の安東氏を係争させました。しかし安倍と安東はもとは同じ血を引くものなので,それぞれ和解し幕府の奸策を破りました。
そのため内三郡に幕府の代官として守護職にあった曽我氏は,平氏とともに安東氏と和を結んだのは建武元年(1334)七月十八日のことでした。
しかし足利氏の朝廷に対する反逆以来,安東氏は南部氏の侵略に晒され,長い年月の争闘の結果,ついに何百年も宰領してきた津軽の故地を放棄し,渡嶋(蝦夷)や阿北(あきた)に移住し,その歴史は一変しました。
吹く風に 舞ふや枯葉の 逝く果は 何処に散るや 秋風のまま
(風に吹かれて舞って行った枯葉はどこに散ってしまうのだろうか,おそらく秋風に流されるままだろう)
津軽地方には縄文時代の大規模遺跡「三内丸山遺跡」が発見されており,この地方には縄文時代に平和的に営まれていた集落があったことが知られています。
『東日流外三郡誌』によれば,この地方は先住民の荒吐一族が治めていたと言います。安東氏はこの地方を治めていた荒吐一族と同じ長髄彦を祖先とする一族であると言い,有史以降では大和朝廷や鎌倉,室町幕府の外圧と折り合いをつけながら17世紀を迎えました。
ところが江戸時代初期に常陸国(現・茨城県)の大名であった佐竹氏が現在の秋田県に転封させられた時,その地に割拠していた秋田氏は三春(福島県田村郡)に転封となりました。
秋田氏は故地を追われましたが,安東氏の時代から伝わる文献を多数所蔵していました。それが天明の大火で焼失したため,『東日流六郡誌』の再編に乗り出したと言います。
『東日流六郡誌』のうち,現在刊行されているのは外三郡にあたる歴史書です。偽書説もありますが,津軽地方を古代から統治してきた安東一族が,その歴史を失うまいとして編纂したこの文献を完全に無視するのは論外であると考えます。
さらに言えば,1万年近く平和的な営みをしてきた「三内丸山遺跡」の存在が,OAHSPEに記載されたイスタの存在です。
特に『東日流外三郡誌』に記されている津保化族は,日本に渡ったイヒン人である可能性があるため,それについて考察します。
『OAHSPE』イスタ=『東日流外三郡誌』津保化族
『東日流外三郡誌』によれば,古代津軽地方(現・青森県)は阿蘇部という一族が住んでいたと言います。阿蘇部族は狩猟民族であり「寒地に強い民族であった。主食は肉や干し肉,木の実や魚介などを常食として」いました。
『OAHSPE』では,主神はイヒン人に肉食を禁じていたため,肉食をしていた阿蘇部族はイフアン人であると見ることができます。
ここに津保化族が来訪し,混血したと言います。
阿蘇部一族の誕生は不詳だが,寒地に強い民族であった。主食は肉や干し肉,木の実や魚介などを常食としていた。冬は湯が湧く地を探し求めて過ごし,保存食は干し肉・魚や,木や草の実であり,煮炊きしないで食べた。道具は石器を使用し,住居は次のような様子であった。(注:木組みや茅葺の住居の挿絵あり。割愛)
『東日流外三郡誌』津軽秋風誌 第一巻(原本:東日流外三郡誌 1古代篇(上) (東日流中山史跡保存会編 八幡書店 刊))
一族の滅亡は,噴火および津波と考えているが,後世にその一族は異国民の津保化族と混血し祖先の血脈を遺したという。
津保化族とは,支那か韓国民の一群が船で津軽に漂着して,衣食住を定住させた民族という。この民も狩猟および火を使用し,土器を造り,一族はみな邑を営み暮らした。
衣は毛皮および草木の皮を織ったものを使用した。弓はよく使用した。男は狩猟をしたり道具を製作し,女は衣を織ったり土器を造ったりした。
引用部分の「一族の滅亡は,噴火および津波」ですが,『OAHSPE』に記されたパン大陸の水没の可能性があります。この噴火または津波により阿蘇部族は滅亡したと言いますが,異国から渡来した津保化族と混血し,その血脈を遺したと言います。
この内容は『OAHSPE』のイヒン人(イスタ)が日本に渡来後,現地のイフアン人と混血したという記述(OAHSPE-18『主神の第5の書』5章-14)に符合すると考えます。
『東日流外三郡誌』によれば,「津保化族とは,支那か韓国民の一群が船で津軽に漂着して,衣食住を定住させた民族」とありますが,パン大陸水没後に漂着したイヒン人であるとすれば,出発元は水没したパン大陸であり,「支那か韓国民の一群」ではなく,ジャフェス(中国)に向かった船団のうち,2艘が逸れて日本に漂着した船団ではないかと思われます。
この伝承は『東日流外三郡誌』に他でも綴られています。
太古の世の十万年前,蒙古より阿蘇部族が日本国の北方に移住してきた。続いて津保化族が渡来した後,陸の大半が海底に沈む。
『東日流外三郡誌』総集篇歴抄 上巻(原本:東日流外三郡誌 1古代篇(上) (東日流中山史跡保存会編 八幡書店 刊))
「津保化族=日本に渡来したイヒン人(イスタ)」であるとすれば,「津保化族が渡来した後,陸の大半が海底に沈む」の記述は『OAHSPE』のイヒン人(イスタ)を指していると思われます。
『東日流外三郡誌』が,元々古代津軽を統治してきた安東一族の伝承を収録しているのだとしたら,『東日流外三郡誌』に記される津保化族の記述が,パン大陸水没後に日本に漂着したイヒン人(イスタ)とこれほど符合するのは,何かしらの関連があるからではないかと考えています。
今後『東日流外三郡誌』における荒吐信仰と日本に渡来したイヒン人(イスタ)の関連性について考察していきます。
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