先住民・阿蘇部族の伝承(『東日流外三郡誌』第二巻より)
『東日流外三郡誌』によれば,青森県弘前市には「岩木山」があり,そこには次のような先住民の阿蘇部族の伝承が記されています。
阿蘇部族の名残は岩木山に伝説として残っている。古老が言うには,
『東日流外三郡誌』津軽秋風誌 第二巻(原本:東日流外三郡誌 1古代篇(上) (東日流中山史跡保存会編 八幡書店 刊))
「『いわきおやま』は現在では,この地を『あそべのもり』と呼んでいた。古き時代に起きた噴火で,一晩でこの森を火石で埋め尽くし,住んでいた人は皆生き埋めとなってしまったのは悲しいことよ。『あそべのもり』は『いわきおやま』となったのじゃ」
標高1,624mの岩木山は,東の津軽平野を一望できる位置に聳え立っており,かつてはこの地は「あそべのもり(阿蘇部の森)」と呼ばれた森でしたが,噴火によりこの地で暮らしていた人々は生き埋めになったと言います。
津保化族の伝承(『東日流外三郡誌』第二巻より)
阿蘇部族の故地・岩木山から津軽平野を挟んで東に位置する梵珠山には津保化族の伝承が記されています。
また津保化族の名残は中山という壺化山に残っている。梵珠山連峰の北に鍋型の山がある。この山を人は『つぼけもり』と呼び,または鉄鉢山,または源八山とも呼んでおり,多くの伝説を遺している山である。
『東日流外三郡誌』津軽秋風誌 第二巻(原本:東日流外三郡誌 1古代篇(上) (東日流中山史跡保存会編 八幡書店 刊))
飯積という山麓の村人が言うには,
「『つぼけもり』という場所に『おにのつぼ』があって,そこに繁っている木は世にも稀な珍木です。昔『いわきおやま』で噴火した時,『あそべやま』から逃げてきた人々が住んだ場所です。またこの山の奥を『魔の岳』と呼ぶ場所があり,人の立ち入りが禁じられています。麓の石塔山も同じです。
『つぼけ』というのは人が住む一族の呼び名です。後の山の呼び名は後世の人によって訛って付けられたものです」
梵珠山の北には飯詰村(『東日流外三郡誌』では飯積)があり,ここには石塔山もあります。この辺り一帯は『つぼけもり(津保化森)』と呼ばれていたようで,かつて岩木山の噴火の際,避難民が逃げ込んだ場所とも言います。
荒吐族の誕生
阿蘇部族と津保化族が混血し,後に支那や韓国から漂着してきた民族が津保化族と混血し,生まれたのが荒吐族であると言います。
荒吐族の名残は津軽外三郡の神社にその名を留めている。荒磯神社,洗磯神社,磯崎神社などは荒吐一族の名残である。
古老が言うには,
「『あらばきのかみ』を調べてみると,山の神,月の神,水の神,金の神,木草の神,土の神,火の神,日の神などがいて,次のようであった。
日の神は生々,月の神は死界,海の神,山の神は山海の幸,水の神は農,金の神は武,木草の神は衣食住,土の神は田畑,火の神は難除,といった意味である」津軽に荒吐の神を知るものはなく,その習わしだけが残っている。後世に仏教と混じり,または大和の落人の神と混じり,その宗旨も変わり,残っているのは『いたこ』『ごみそ』などである。
『東日流外三郡誌』津軽秋風誌 第二巻(原本:東日流外三郡誌 1古代篇(上) (東日流中山史跡保存会編 八幡書店 刊))
また『オシラ』というのは,桑と馬の神であり,その姿は秘匿され占法霊媒双法を修めている。(注:『オシラ』『イタコ』『ゴミソ』の挿絵あり。割愛)
右は修法に用いられるものであり,その方法は極秘とされている。
荒磯神社は津軽平野中央部に位置する神社で現在は「荒磯崎神社」として知られています。
『東日流外三郡誌』が編纂された江戸時代には,祀られていた荒吐神を知る者がいなくなっていたと言いますが,「山の神,月の神,水の神,金の神,木草の神,土の神,火の神,日の神など」がいたようです。理由は渡来した仏教や大和朝廷の落人が信仰していた神と混ざり合い,宗旨も変わってしまったためと言います。
荒吐神は現在では「アラハバキ神」として知られており,「足の神様」として草履が奉納されたりもしています。(写真:荒波々伎神社(東京都あきる野市 二宮神社域内))
イェスタのイヒン人が現地のイフアン人と同化したことにより,何が起きたのか?
『OHASPE』によれば,イェスタ(日本)に向かったイヒン人は他の地(グアタマ,ジャフェス,セム)のイヒン人とは異なり,現地のイフアン人と混血していったと言います。(OAHSPE-18『主神の第5の書』5章-14)
神の声を聞くことができないイフアン人の血を取り入れると,その子孫はイヒン人が持つ「神の声を聞く能力」を喪失することになります。それでもイェスタのイヒン人は現地のイフアン人と同化し,つまり神の声を聞くことができなくなっても,現地のイフアン人と同化し,イフアン人を野蛮人から文明人へと導いたと言います。
先住民の阿蘇部族は元来狩猟民族でした。しかし岩木山の噴火などがあり,阿蘇部族の多くは亡くなり,そこに津保化族が漂着してきました。
一方,神の声を聞くことができるイヒン人も,冬は極寒の地に変貌する青森県では現地のイフアン人の協力なくして生き延びることが困難でした。イフアン人もまた,火山により生存が危ぶまれる状況にあり,そこに劣悪な環境も相まって,生きていくために互いに協力せざるを得ない状況だったのだと思われます。
こうして津保化族と阿蘇部族の生き残りは,互いに「つぼけもり」と呼ばれる梵珠山の北で共同生活を営むようになり,荒吐族と呼ばれる原型が形作られていったのだと推測します。
そこに他国からの移民や日本列島の南方で戦乱から逃れた人々が流れ着き,日本では例を見ない多民族国家となりました。彼らは荒吐族と呼ばれ,5人の王が治める統治国家となりました。
荒吐族が信仰した荒吐神について
荒吐族が定住した東日流の地は極寒の地であったため,そこで生き抜くために部族内での掟を定めたと言います。彼らは部族内の結束を高めるため,「『全能の神』荒吐神を平等摂取の神」を崇拝したと言います。(『東日流外三郡誌 抜抄篇第三』より)
この荒吐神が「全能の神」である点は,日本の古代神話に登場する神に全能の神は存在しないことを鑑みると,かなり特異な事情なことです。『古事記』の神代編を例に挙げると,天地開闢の際に天之御中主神,高御産巣日神,神産巣日神の三柱が降臨され,それ以降,数多くの神々が登場しますが,全能の神は一人も存在しません。創造主を信仰する人々がいれば全能の神は自然と生まれてくるものですが,日本には神代の時代から全能の神が生まれてこなかったのです。
ワガの残滓であった日本には,もともとワガ大陸自体が信仰心が薄れていたこともあり,全能の神が根付く環境になかったのかもしれません。荒吐族の時代は全能の神として信仰されていた荒吐神も, 現在では「足の神様」などで知られていることからも推測ができます。
逆に,この特殊な環境下で全能の神として崇められていたこと自体が特殊なのです。この全能の神という信仰を芽生えさせたのは,パン大陸の水没から逃れてきたイェスタのイヒン人,つまり津保化族だったのではないかと考えています。
結論
『OAHSPE』に記載されている内容の中で,イェスタのイヒン人は日本と深い関係にある部族ですが,『東日流外三郡誌』という書物にその手掛かりと思われる内容がありましたので,今回,個人的に考察している内容の一部も併せて記事にしました。
特に荒吐族が信仰していた荒吐神が,日本に根付かなかった全能の神である点は非常に重要な点だと考えています。なぜなら「全能の神」荒吐神の信仰を始めたのは,創造主を信仰していたイェスタのイヒン人である可能性があるからです。そしてイェスタのイヒン人を含め,現地のイフアン人と同化することで誕生した荒吐族が,「全能の神」荒吐神の下に糾合していったのだとすれば,『OAHSPE』の以下の記述と符合するのだと考えます。
2艘の船で北の地(日本)に向かった部族は,1000年経ってもイフアン人との間に線引きできずにいました。なぜなら彼らはイフアン人と混血したため,イヒン人としての能力が失われてしまったからです。それにも関わらず,彼らは野蛮人を叡智と平和に導いたのでした。
『OAHSPE』主神の第5の書 5章-14
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