倭国の歴史(考察)

倭国の歴史(考察)

雄略天皇の子,星川皇子は誰に対して反乱を起こしたのか?

479年に雄略天皇が崩御された時,末子の星川皇子は10歳程度の子供に過ぎませんでした。『日本書紀』雄略紀には,父親の雄略天皇がまだ子供の星川皇子に怯える遺詔を伝えています。しかし倭王武として知られた雄略天皇が10歳程度のわが子に怯えるなど考え難いのです。この謎について解き明かしていきます。
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『大唐故右威衛将軍上柱国祢公墓誌銘并序』を読む

倭国の歴史を解明する上で「日夲」という単語が刻まれていたことで脚光を浴びた『袮公墓誌銘』。そこに登場する2人の帝(簡帝,僭帝)。この時代,いったい何が起きていたのか?古代史の謎について私見を述べます。
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慕韓(馬韓)滅亡の原因について

475年,百済滅亡後の朝鮮半島南部の情勢 475年,百済は高句麗・長寿王の侵攻により滅亡しました。(百済滅亡の経緯はを参照) 百済・蓋鹵けろ王は滅亡時に殺害されましたが,子の文周王子が南に逃れたといいます。蓋鹵王は子の文周にこう言った。「予...
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[考察]『上宮聖徳法王帝説』裏書について

『上宮聖徳法王帝説』の裏書は,蘇我馬子と関連の深い「浄土寺」および「山田寺」についての由緒が記されています。本サイトでは裏書(現代語訳付)について考察していきます。
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[徹底解説]632年,唐の使者・高表仁と礼を争った王子は誰か?

632年に唐から高表仁が倭国を訪問した際,礼を争った王子がいたと『旧唐書』に記されています。その王子について解説します。
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[考察]2人の中大兄皇子

『日本書紀』に記述される中大兄皇子の行動は謎が多いことで知られています。しかしある2人の兄弟を中大兄皇子という架空の人物に合成した結果だとすれば,辻褄が合ってくるのです。本サイトでは中大兄皇子のモデルとなった2人の皇子について解説します。
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[考察]643年,山背大兄王の薨去後に即位した天皇は誰か?

643年,山背大兄王は蘇我入鹿の襲撃により滅びました。この後,『上宮聖徳法王帝説』によれば,当時在位していた皇極天皇に代わって別の天皇が即位している形跡があります。しかもその天皇の御名は欠字で伏せられています。本サイトでは,山背大兄王の薨去後に即位した天皇について解説します。
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[徹底解説]即位していた聖徳太子

聖徳太子は推古天皇の摂政として倭国の国政を担ってきたと『日本書紀』は記していますが,聖徳太子は即位していた可能性があります。本サイトでは,『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』の解析により,聖徳太子が即位していた可能性について解説します。
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[徹底解説]「法隆寺金堂薬師如来像光背銘」に刻まれた謎について

「法隆寺金堂薬師如来像光背銘」には,仏像製作当時の銘文が刻まれています。その銘文に刻まれた内容を解説します。
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[考察]531年に崩御されたのは継体天皇ではなく宣化天皇である点について

『日本書紀』継体紀には,継体天皇の崩御年は531年と記されていますが,「日本の天皇、及び太子、皇子が崩御、薨去した」という不穏な記述もあります。本サイトでは,この記述が何を意味しているのかを解説します。